HOME4.市場・運用 |金融庁主導の「日本版スチュワードシップ・コード」の気になる点(FGW) |

金融庁主導の「日本版スチュワードシップ・コード」の気になる点(FGW)

2014-06-03 21:51:06

stuwatrdshipan24
stuwatrdshipan24金融庁が「機関投資家の責任ある行動を促すため」として導入したスチュワードシップ・コードの受け入れ表明をする金融機関、機関投資家が100社を超えた模様という。

【誰に向けた責任か?】

金融庁への受け入れ表明は先月末までとし、各機関がコードに盛り込まれた原則に基づく「公表項目」を公表するのは、8月末というスケジュールになっている。機関投資家が「責任ある行動」をとることは望ましいが、その責任は誰に向けたものかが、気になる。

 

スチュワードシップ・コードは、英国が先行して実施している資金運用主体の機関投資家に向けた基本的な行動規範の日本版である。企業株の保有者・運用者としての機関投資家(および資金運用機関)が、投資先企業の経営者に対して、企業価値の向上や持続的成長等につながる経営方針をとるよう積極的に働きかけることを「責務」として求める内容だ。

 

企業経営が内向きになったり、短期的な収益至上主義に陥ったりすることがないよう、顧客・受益者への中長期的なリターンをもたらす視点を投資家の目線で求めなさい、という行動原則のとりまとめである。

 

スチュワードとは、執事、財産管理人等の意味である。もともとはキリスト教の教えに由来し、「神から委ねられた恵みや財産に対して、責任をもって管理すること」という考えが根本になる。飛行機のスチュワーデス(最近はキャビン・アテンダント:CA)も、飛行中、顧客に対して責任を持つ、との意味を含んでいる。環境問題でも米国の自然保護運動などの考え方には、「自然は人間が神から管理するよう委ねられたもの」という環境スチュワードシップの思想がある。

 

いずれにしても、「物言わぬ投資家」として名だたる日本の機関投資家が、投資先企業に対して積極的に企業価値向上を働きかけ、場合によっては株主権を行使するということは、本来の投資家行動に沿った、あるべき姿といえる。

 

【アベノミクスが出発点】

ただ、もろ手を挙げて歓迎するのはいささか早い、と言わざるを得ない。コードが求める投資家の「責任」が、誰に向けられているのか、が問題なのだ。まず、なぜこの時期に金融庁がコードを打ち出したのか、を振り返ってみよう。すると簡単にコードの構造が見えてくる。

コード作成の作業は昨年8月、金融庁に有識者検討会が設置されて進められてきた。その背景は、アベノミクスの第三の矢を定める「日本再興戦略」の一つとして、機関投資家の受託者責任を果たすための原則を定めるべき、との考えがあった。わかりやすく言えば、機関投資家は株をもっと買い、株高に資するような経営をするよう企業に圧力をかけよ、という政治的要請を受け、半年足らずでとりまとめられたようだ。つまり、政治に向けた責任の可能性がある。

 

もう一つ。金融庁は、コードは法令ではなく法的拘束力はない、としながらも、「趣旨に賛同し、受け入れる機関投資家は、その旨を公表し、公表後は遵守しなければならない」と明記する。さらに金融庁が受け入れ表明を行った機関投資家リストを定期的に公表するとしている。「ソフトロー」といえばちょっとカッコいいが、金融庁が監督権限を持つ保険会社や資産運用機関などは、「受け入れ表明しないわけにはいかない」(関係筋)。

 

【金融監督と”利益相反”の恐れも】

英国のコードは同国の金融庁(FSA)ではなく、会計・情報開示を担当する金融報告審議会(FRC)という機関の管理下にある。金融機関を監督するFSAがコードも管理すると、監督権限との利益相反が生じかねない、との懸念から別組織のFRCが担当している。翻ってわが国では、法的な監督権限を持つ金融庁がソフトローのグリップも握る形だ。とりわけ金融機関の「責任」は同庁に向いている可能性がある。

 

本来、コードが求めるべき「責任」は、機関投資家に対する資金の出し手である年金受給者、保険契約者らにこそ向けられるものである。機関投資家には、スチュワードシップという概念の大本として、フィディシャリー・デューティー(受託者責任)の考え方がある。

 

資金の出し手が委託者、資金を預かって運用を委ねられている機関投資家や資金運用機関が受託者である。受託者はその資金の運用に際して忠実義務、善管注意義務を負う。受託者としての投資家が、投資先企業に対して経営改善を申し入れたり、議決権行使をしたりするのは、こうした根本的な責務を委託者に対して負うからである。

 

このため、リーマンショックの時のように金融市場が大混乱すると、株投資の場合でも投資先企業と「目的を持った対話」などをしている余裕はなく、直ちに株売却、他の金融資産への切り替えを選択して損失を回避しなければ、受託者責任を果たせない。つまり、受託者責任と書けば、受託・委託の関係で「責任」が誰に向けられたものかが一目歴然なのである。それをスチュワードシップと強調するのはなぜなのだろうか。英国のコードには、受託者責任を明確に踏まえたスチュワードシップとの位置づけされている。

 

金融庁に聞きたい。金融庁にもスチュワードシップがあるとすれば、それは誰に向けた責任だろうか。この答えは難しくはない。金融市場の安定によって国民経済社会を豊かにすることであり、つまりは国民に向けた責任ということであるはずだ。そうした金融庁が打ち出したスチュワードシップ・コードだが、どこか、かつての株価PKOのような「駄策」と似ているようで、何度考えても気がかりだ。(FGW)