Shimazu教授が取り上げているのは報告書の英文版のイントロ部分で、Message from the Chairmanというタイトルのところです。Chairmanは事故調の黒川清委員長のことですが、イントロの中で委員長が、この事故は大地震、大津波という「自然災害によって引き金を引かれたものではあるけれど」としたうえで
It was a profoundly manmade disaster – that could and should have been foreseen and prevented.
福島の原発事故は完全に人間が起こした災害(人災)であった。起こることが予期でき、防ぐこともできた事故だったのであり、予期も防止もされて然るべきものでもあったのである。
と述べて、さらに次のように述べている部分があります。
What must be admitted – very painfully – is that this was a disaster “Made in Japan.”
大いなる苦痛をもって認めなければならないのは、これが「日本製の」大惨事であったということである。
福島の事故が「日本製」だったとはどういう意味なのか?委員長によるとあの事故の根本的な原因は、日本文化にしみ込んだいろいろな慣習・因習(ingrained conventions of Japanese culture)にあるのだそうです。具体的には、盲目的服従(reflexive obedience)、権威を疑問視することを嫌がる態度(reluctance to question authority)、決まっていることに献身的にこだわる(devotion to ‘sticking with the program’)、グループ中心主義(groupism)、閉鎖性(insularity)などが列挙されている。この種の習癖は日本人の誰にでもあるものなのだから、
Had other Japanese been in the shoes of those who bear responsibility for this accident, the result may well have been the same.
この事故について、他の日本人が責任者の立場にいたとしても結果は同じであっただろう。
ということになる。つまり福島の原発事故は、極めて日本的な思考方法や国民性が故に起こったものであると言っているわけです。“Made in Japan”とはそういう意味です。首相が菅さんであってもなくても、東電の社長が別の人であったとしても、結果は同じであったはずだということです。みんな日本人なのだから・・・。
Shimazu教授が指摘しているのは、福島の事故を日本人の国民性とか日本人論(Japanese essentialism)のようなものと関連付けて語ることで、事故の本質を「文化のカーテン」の陰に隠してしまい、より深く事故を検証しようとしなくなるかもしれないということです。ましてや「服従」「権威に弱い」「閉鎖的」「グループで固まりたがる」等々は必ずしも日本だけの現象ではないのだから、この原発事故やそれへの対応をmade in Japanと言ってしまうのは正しくないというわけです。
一方、7月9日付のFinancial Timesのサイトが国会事故調の報告書に関連してコロンビア大学のジェラルド・カーティス教授の寄稿文を掲載しているのですが、カーティス教授もまた「福島の事故を日本文化のせいにするな」(Stop blaming Fukushima on Japan’s culture)と批判しています。
カーティス教授は報告書が「誰が悪いと責めることが目的ではない」(goal is not to lay blame)とか「ほかの人間が責任者だったとしても結果は同じことだった」などとしている点について「私の意見は全く違う」(I beg to differ)として次のように語っています。
Had Mr Kan not stormed into Tepco headquarters and tried to exercise some authority over the company’s executives, the situation might have been far worse. If Tepco had had a more competent president, its communications with the prime minister’s office would have been better.
菅(直人)氏が東電本社に乗り込んで同社の幹部に対してある種の権威を行使しようとすることがなかったら、事態ははるかに悪くなっていた可能性だってあるのだ。もし東電の社長がもっと能力のある人物であったならば首相官邸とのコミュニケーションはもっとよくなっていたはずなのだ。
The Fukushima Commission report “found an organisation-driven mind-set that prioritised benefits to the organisation at the expense of the public.” Well, if that is Japanese culture, then we are all Japanese.
国会事故調の報告書は「公共の利益を犠牲にしてまでも組織の利益を重視しようとする思考方法」について触れている。もしそのような思考方法が日本文化なのだとしたら、我々はみんな日本人だということになるのだ。
と結論しています。
▼ロンドンのNaoko Shimazu教授がもう一つ指摘しているのは、黒川委員長のメッセージが英文版と日本語版では違うということです。日本語版では、この事故がmade in Japanというような記述はない。日本語版の中でこれに近いようなことを言っている部分をあげると
▼ということになるかもしれない。日本語版と英語版の「委員長メッセージ」を読むと(私などには)英文版の中身がいかにも「外人向け」に書かれたように見える。日本人として長年ロンドンで教えているNaoko Shimazu教授も似たような感想を持ったのかもしれない。なぜ日本人に向けて書いた日本語のメッセージをそのまま英訳しなかったのか?黒川委員長を始めとする委員たちのアタマに「日本人の言うことはガイジンさんには分かりっこない」という思い込みがあったのではありませんか?黒川委員長らはそのつもりはなかったのかもしれないけれど、福島の原発事故をmade in Japanと定義してしまうことで、この事故の経験をほかの国の人々と共有しようという姿勢がなくなってしまったように見える。