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見えるもの、見えないもの。そして見えつつあるもの ~浪江町での3年間を振り返る~(1)~(4)(玉川啓 TOMORROW)

2013-07-05 00:51:42

tamagawa無題
tamagawa無題福島県浪江町。

あの「3.11」に震度6強の地震に見舞われ、親しみある浜辺の集落が津波に襲われ、その翌日に原発事故による避難、ついには全町避難を余儀なくされたまち。多くの町民が「ふるさと なみえ」と愛するこのまちに、私は震災前後の約3年間、全精力を傾けて関わらせて頂きました。(玉川啓)

震災以降、復興に携わる各地の方々、市民の方々との様々な対話の機会がありました。そういった機会を重ねていく中で、それらの場で私に投げかけられた多くの問いは、なみえの問題だけでなく、多くの地域の方々とも共有する意義があることかもしれない、そう感じつつあります。

仲間たちとの間で始まった小さな対話。それは静かに広がり、震災後2年目の3.11には大手新聞社の社説そのものと化していきました。地域の声を社説として伝え抜くという異例のスタイル。筆をとった方の「福島の地から見えつつあることをより多くの方々と共有していきたい」という強い願いを感じずにはいられませんでした。

対話を重ねる中で、私の目から見えたことがいくつかあります。多くの方々が豊かな視点や気づきを持たれていると思いますが、そこに私の気づきという小さな石を投ずることにより、皆さんの気づきや学びがさらに広がる。そんなきっかけになることを願い、このたび筆を執らせて頂きました。そしてこれは、仲間からの問いかけに対する私の応えでもあります。

1.私と浪江町


2010年4月、私は福島県からの出向という形で、妻と娘とともに私は浪江町に赴くことになりました。新しいまちづくりに取り組む浪江町の要請に福島県が応えた形での出向でした。その後様々な悩みや経験を経て、徐々に町内の多くの方々との信頼関係が生まれ、新しい流れがこの地に生まれる、そんな手応えを感じつつあった矢先に震災が発生しました。

震災以降は、私の仕事は震災対応へと一転していきます。政府の支援がない中での全町避難。体育館への一次避難と、県内各地に分散避難している約五千名の町民に約200カ所のホテルやペンションに移動して頂く二次避難。混乱を極める役場業務の運営支援。それら当初の緊急フェーズを経て、2011年の夏ごろからは、徐々に暮らしの再建とふるさとの再生というテーマを扱うようになっていきました。

今までは想像もつかなかった政府各層との直接折衝。現場での対応に追われる職員の方々を支えるために私が関わった仕事でもありました。さらに、分散避難する町民の方々の多くの声を踏まえて、ともにまちのこれからを考え、復興ビジョン・復興計画という形にしていく、そんな住民とのパイプの役割も担うことになりました。

今年3月を持って福島県庁へ戻るまでの約2年間。役場職員、市民協働の支援者、政府、復興支援関係者との調整役、計画策定のコーディネート役、浪江の若者たちの育成役、地域の一人の父親など。その時々、局面ごとに様々な役割を担ってきました。仮に私が私らしい伝え方をできるとすれば、そのような多面的な役割に関わったことが大きいのかもしれません。

2.災害は本当に終わったのでしょうか。


3.11の地震と津波という自然現象は収束し、原子力発電所も事故直後から比較すれば緊急事態は脱しつつあります。一人の生活者の目線に立てば、災害は終わり、今は復旧のタームから復興に至っていると思っても不思議はありません。事実、被災というものを目にしたり実感したりする機会は大幅に減っています。

そういった生活実感がある一方、日本では深刻な状況が続いています。それは「避難」というもう一つの災害によるものです。この先進国、21世紀の日本において、約16万人の方々が国内難民状態にあります。自宅に住みたかった。でも住むことができない。約9万人は選択の余地なく、強制避難を強いられています。過酷な原発事故、それに引き続く放射能に対する不安もあり、首都圏から西日本への「自主避難」はいまだに続いています。

特に原発被災地域では「震災関連死」が震災以降、最大の死者を生み出しています。浪江町では地震と津波で約190名の貴重な命が失われ、それをはるかに超える方々が震災関連死として、今も命を失い続けています。公的に認定されたものだけでも300人を超え、避難が続く限り、この数字は確実に積み上がっていくのです。

私たちの目からは、仮設住宅や借上げ住宅で住んでいる「今の姿」しか目にすることはありません。当たり前にそこに住んでいる、そんな錯覚も生まれつつあります。「目に見える部分」としてはそうなのかもしれません。

でも、私の目からはもう一つの風景がその背後に浮かんでいます。tamagawa無題

祖父の代からの歴史ある広い住宅に住み、畑を耕し、なじみの友人と語らい、大切にしてきた地域の行事が共にある、ゆったりとした暮らし。田舎ではあるものの地域を作ってきたという誇りある暮らし。都会での生活に疲れた人が、第二のふるさととしてあこがれる暮らし。私たちの経済では換算できないプライスレスな暮らしがそこにはありました。それは残念ながら「見えない」「見えにくい」ものなのかもしれません。

この生活環境の変化(悪化)は、人の命をひどく蝕んでいきます。つい先日まで元気だったおじいちゃんが、ある日命を落としていく。人の生命力が徐々に弱まっている兆しが多く現れています。この問題は、原発の被災度が低い、宮城県や岩手県でも共通する部分があるのではないでしょうか。

私の目には、いまだに終わっていない震災、苦しみ続ける人々の存在が映っています。普段の生活では見えにくいこと。だからこそ、より多くの方々が共感できるように、事実を共有していくことが必要、そう感じる物事の一つでもあります。

3.町民の「声」を受け止めること、共有・共感するための努力の大切さ


浪江町での取組では、町民の声をつらくとも受け止めようとあがいたこと、ここに特徴があると言われます。中年男性が回答者数の大部分を占める世帯アンケートではなく、手間がかかっても高校生以上の全町民にアンケートをとり続けていること(毎回6割の回答率、約11,000人の回答)、アンケート対象外となる小中学生の生の声を、自由欄アンケートとして取り、直筆のまま全てをまとめたこと(回答率約7割、千名以上の回答)。全町避難であるのに町民検討委員会による検討を重ね続けたことなどがその例として挙げられます。

それらの取組みの原点となったのは、災害を通じて町民の方々から頂いた気づきの中にありました。表面上は「見えなかった」声の奥にある声。そこに接することで、その大切さに気づかされたことが大きく影響しています。その中でも印象に残った2つの出来事を紹介します。

町役場という最後の砦


一つは、私にすがりつく女性のまなざしでした。

役場自体も避難し、他の市の庁舎をお借りして避難対応に当たっている中、お子さんをお持ちの女性が、私に詰め寄り、私に不満の思いをぶつけてこられました。私も人です。自分ではどうしようもできない言葉は正直言って、何とも苦しい、切ない訴えでした。その女性からある言葉が私に向けられました。「本当はあなたが全てを解決してくれるなんては思っていない。だけど、国にも県にも東京電力に言っても、だれも聞いてくれない。その上で、私たちの役場の、あなたにさえ聞いてもらえなかったら、いったい私は誰に受け止めてもらえばいいのですか?」一介の役場職員である私にすがりつく彼女の切なさ、苦しさが迫ってきました。

逃げようと思えば逃げられる。でも、受け止めきれないとしても、逃げて良いものなのだろうか。住民を抱える最終ライン。私たちの普段の生活では役場はそれほど重い存在ではありません。ただし、極限の状況を迎えると、住民の方々にとって最後の砦となること。最後の砦であったこと。これも「見えなかった」ことでした。「自治」がなにゆえ重く、尊重されるべきなのか。最後の砦であるからこそ、最後の砦となりうるからこそ、大切だったこと。この女性の痛切な叫びによって、はじめて見ることが出来たのかもしれません。

「声」の奥にある想いと向き合う


もう一つの出来事は、避難から2週間を迎え体育館避難から、旅館やホテルへの二次避難を準備していたときの出来事でした。

既に避難から約半月が経過し、長引く体育館での避難生活から住民の方々の疲れもピークに達しつつあり、旅館やホテルへの二次避難を模索していた時期の出来事でした。この時、実は私自身も、極限の状況下での仕事と睡眠不足により、すり減り、限界を迎えようとしていた時期でもありました。

そのような中、約20カ所の避難所の中でも、まとまりがあると言われていた約200名を収容するある避難所の責任者が役場の本部に駆け込んできました。「二次避難の案内に対して納得できない」「全員拒否する」「役場の責任者を読んでこい」そんな大きなトラブルが発生していました。

実務に追われる中でしたが、私が町側の責任者としてただ一人赴くことになりました。この役を担う者がいない以上、住民の方々から吊し上げになってもやむを得ない、そう覚悟を決めて、避難所に向かい、全避難者が集う大広間に足を踏み入れました。

数百の目が、私に向けられ、そのような場にはじめて出た私は、何をお答えすべきか正直悩んでいました。まずは何を皆さんが求めているのか、それを知りたい、その思いから向かい合う先にいる一人一人に目を向けていくと、見えてきたものがありました。それは、この理解できない状況下で困惑した瞳、誰かしらに答えを求めるすがりつくような瞳でした。まずは想いを誰かが受け止めること、そここそがみんなが求めていることなのではないか。ふとそう感じました。そこから説明会ではなく、私と皆さんとの対話が始まったように思います。

皆さんをこのような状態においてしまっていることの申し訳なさ、ふがいなさ。被災者を支えていたはずの人が一転して被災者としてふるさとを追われたこと。自然災害といえばまだしも、「絶対安全」という施設の事故で追われることの理不尽さ。その上で、今回の案内は、無理に今のところを追い出す考えではないこと。意向調査も出したくなければ、出さなくて良いこと。ただ、私自身としては避難が長引くことが分かりつつある中、集団生活を続けることの疲れは、切なく感じていること。一人一人が自分の部屋で休める状況にしてあげたいこと。tamagawa無題

一人一人の目を見つめながら、「私」として言葉をお伝えする時間が続きました。私の話が終わった後からは、切実だけど穏やかな問いが重ねられていきました。出てきたのは、不満ではなく、次のステップへの「不安」でした。強く反対意見を述べていた方も、素直な質問を私に問いかけてくるだけでした。

質疑も終わることになり、司会をしてくださった避難所の自治会代表の方が終了を告げたとき、私の目に信じられない光景が現れました。自分の耳に届いたのは、町民の方々の一人一人の拍手の音でした。満場の拍手。想像すらしない状況が目の前に生まれていました。 この場に臨むまでは、疲れによる徒労感。やむを得ない役割。なんとかするしかない。そんな思いで足を運びましたが、結果的に一番励まされたのは、私でした。厳しい状況下にあるからこそ、誠意を返す皆さんの振る舞いに、私は深く、深く頭を垂れるしかありませんでした。その後に、避難所の方々に頂いた、炊き出しの温かいシチューの味は今でも忘れることは出来ません。

翌日、ほぼ全員の人が賛成の意向調査を提出してくれたとの報告が届きました。結果として、多くの避難所があった中でも、この避難所の方々は早い時期に次のステージに移ることになりました。   この二つの経験は、のちに私が復興ビジョンや復興計画に携わる際に、最も重要視した「住民の声や想いをしっかり受け止めることの重さ、そしてその必要性と価値」の原体験となりました。

二つの体験から見えるもの


多くの議論の場において、最初の頃に現れる「住民」の声。私たちは効率性を重んじる中で、それだけで、もう分かったものとしたくなることがあります。ただ、それが本当の声なのか。最初の声や想いのそこにある、さらなる「声」「想い」に達しているのか。まだプロセスの途上ではないのか。そういった問いを私たち自身、どこまで重ねているでしょうか。

プロセスを重ねる中で、不安や戸惑いのそこに潜んでいた、住民なりの考えや判断が立ち上がっていくこと。そのプロセスに立ち会うことで、行政の問題のとらえ方も成長していく。そのプロセスを経た上でたどり着く結論を信頼すること。もしかすると結果的にはそのプロセスを経ずとも同じ結論になるのかもしれません。しかし、同じ目線で共有し、ともに悩み考えていく中で至る結論は、形としては同じであっても、全く違う意味を持つのではないか、私はそう思います。

議論すれば結論が出せる、そういった素朴なアプローチではなかなか乗り越えられないということがあります。まちづくりや土木技術といった個別の専門分野以外にも、共有・共感していくための、姿勢のあり方、場の持ち方、進め方の工夫、そこにも実は「技術や経験」が必要なのかもしれません。

これは「住民と行政」だけに留まらず、「住民と住民」「団体と団体」「住民と団体」「団体と行政」いずれにおいても、通ずるところがあります。人と人とがわかり合うためには、橋渡しとなる技術、それが担える人材に参画が必要不可欠です。 出会いを大切にするための努力と工夫が今、求められているのではないでしょうか。

(全4回の連載寄稿となります)  http://www.rise-tohoku.jp/tomorrow/2013/06/487/

2回目 http://www.rise-tohoku.jp/tomorrow/2013/06/496/

3回目 http://www.rise-tohoku.jp/tomorrow/2013/06/504/

4回目 http://www.rise-tohoku.jp/tomorrow/2013/06/515/