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政府主導の“原発討論型世論調査”の危険性。やるなら国民投票につなげよ(FGW)

2012-07-16 09:26:36

2009年12月に神奈川県が実施した道州制をテーマにしたDP
エネルギー環境会議が提示する3つの原発選択肢を判断する国民か

2009年12月に神奈川県が実施した道州制をテーマにしたDP


らの意見聴取会が始まった。出鼻で、仙台で「やらせ疑惑」が早くも発覚するなど、「原発比率15%」を実現するためのアリバイ工作色が見え見えだが、さらに「国民の理解を深める」ためとして、8月には討論型世論調査(Delibelative Poll=DP)を実施するという。このDPが“曲者”である。

 米国発のDPが、果たして今も「追加事故」の可能性のある福島原発を抱えた、我が国のエネルギー政策の議論整理にふさわしいのかどうか。この制度に政府が飛びついたのは、「意見集約せず理解を深める」という口当たりのいいキャッチフレーズにあると思われる。何とか「15%」への国民合意の形をとりたい政府にとって、ゼロ原発と原発促進の中間としての「15%」案に意見を集約するうえで都合よく利用できそうなのである。

 DPは米国スタンフォード大学のフィシュキン(Fishkin)教授(1)と、テキサス大学のラスキン(Luskin)教授(2)が開発、1994年に英国で最初の実験をして以来、これまで15か国以上で40回以上の実験が続けられているという。日本でも2009年に神奈川県が道州制をテーマに同手法での議論を実施した(3)ほか、実験的な試みが大学レベルで行われている。

 調査の手法(4)は比較的簡単だ。各地から選んだ200~300人程度の人々が、泊りがけでグループ討論を実施、討論前と討論後の理解の進展をみるという手法だ。討論には対象テーマの専門家による説明がなされ、議論に詳しい人だけでなく、そうでもない人も参加することから、「社会の縮図(microcosmo)」を構築するという。いかにもアメリカ風の手法だ。

 確かに、意見対立の原因の一つには、実は問題に対する理解不足に起因することが少なくない。特に年金、政治体制などの社会の枠組みを巡っては、国民の間に大きな理解の幅が生じがちだ。専門知識による再確認と問題整理を参加者が自ら参画し、お互い膝を突き合わせて実施するという手法によって、誤解や理解不足による対立部分が解消され、真の意見対立は何かを浮き彫りにすることが可能になるという。

 だが、この制度を原発のような、科学的な発展性と未曽有のリスクの拡散性という、極めて異なった方向での特色を持つテーマに当てはめることが妥当だろうか。原子力村の専門知識に限界があるだけでなく、大きな問題があることも今回の福島原発事故で明らかになった。一方の、人類だけでなく、生態系に及ぼす放射能の影響の広がりに関しても、専門知識の限界と同時に、対策が追い付かない現実が露呈した。対策の広がりは飲食品全体、森林、自然環境全体、日本だけでなく海洋・大気を通じて世界全体、さらには現世代だけではなく次世代以降への影響も懸念される。

 本来は自らの責任で政策決定すべき政府自体が、「エネルギー環境会議」の傘下に環境とエネルギー、原子力の各識者を集めて1年半もの議論を続けた結果、ようやく3つの選択肢にたどり着いたというのが実態である。そうした状況の中で、国民のほんの一部の人たち(200人~300人)に2日間の集中討議をしてもらって論点を整理したからといって、その結果を、どれほどの他の国民が納得できるのだろうか。あるいはそうしたとりまとめ自体にどれほどの意味があるのだろうか。

 フィシュキン教授らが各国で進めてきた過去の事例をみると、例えば2003年の「米国のイラク開戦」、2000年のデンマークの「ユーロ通貨統合参画」などがある。DPはイラク開戦に「イエス」との方向での集約をしたのだろうか。デンマークのユーロ加盟に「ノー」の集約をしたのだろうか。もちろん、中には妥当性がうかがえるテーマもある。1996年~99年の米テキサス州でのエネルギー政策、2008年の米カリフォルニア州での住宅政策などだ。テキサス州のケースでは風力発電所開発を推進する力になったと、フィシュキン教授は指摘している。

 DPが「意見集約せず、理解を深める」ということならば、実は、DPだけでは一定の方向性を決めることにはならず、次のステップでの意見決定にどうつなげるかの手順が重要になってくる。次のステップは、DPを受けて、政府が決定するのだろうか。先のデンマークのDPは次のステップとして国民投票を実施した。その結果が、「ユーロ参加はノー」だった。あるいはオーストラリアが1999年に「共和制移行の是非」をめぐって実施したDPの次のステップも国民投票だった。

 原発の是非は、一国の通貨や国の制度と同様に、国民全体が判断すべきテーマではないだろうか。そう考えると、DPを仮に活用するならば、次のステップ、すなわち国民全体の判断に資する形での討論・熟議をしつらえて初めて、DPも意味を持つ。すでに一部の市民団体が原発国民投票運動を展開しているが、そうした国民の動きを取り込み、さらに発展させてこそ、その前段としての討論型世論調査を実施する意味が出てくるのではないか。

 しかし、逆に言えば、現在、政府が進めようとしているDPはそうした方向を向いているとは思えない。むしろ国民投票を封じるための「熟議アリバイ」に使おうとしているようだ。それでは国民のための議論にはつながらず、政治家とDP関係者のための自己満足型の手順に終わってしまいそうだ。

 実際、今回のDPには、この手法での社会実験を世界で展開しているフィシュキン教授とラフキン教授らが監修委員として参加、日本での実験を指導するという。彼らにとっては、自分たちの研究手法を日本で試してみる絶好の機会なのである。つまり冷やかに言えば、彼らは「社会実験」の成果を一つ、日本で稼ごうというわけだ。一方、我が国の政府は、原発の事故責任を一切とらず、事故抑制対策は今も中途半端な状態を続けている。

 ただ、明らかなことは、全国での意見聴取会が出鼻で「やらせ疑惑」が発覚したように、聴取会や新しい制度を利用して、意見集約を意図的な方向に誘導しようとしても、実際の国民の感覚から遊離していると、必ず、馬脚を露わす。それでも、自ら原発政策を示せず、藁をも掴む思いの野田政権にとって、実施前から結末が透けて見えるDPは、そのワラに映るのかもしれない。(FGW)

(1)http://comm.stanford.edu/faculty/fishkin/

(2)http://www.utexas.edu/cola/depts/government/faculty/rluskin

(3)http://cdd.stanford.edu/polls/docs/flyers/deliberative-polling-flyer-jp.pdf

(4)http://cdd.stanford.edu/press/2009/governance-kanagawa.pdf