書評:Doyne Farmer著「Making Sense of Chaos: A Better Economics for a Better World」 ~テクノロジーが加速する時代における経済予測改善に向けた提言(山口英果)
2025-02-25 23:42:33

本書は、複雑性・不確実性が増す現代において有用な、新しい経済学を提言する。具体的には、標準的経済学の代わりに複雑系経済学(Complexity Economics)の考え方を用いることで、経済予測の精度が改善し、気候変動を含むグローバル課題の解決に近づくと主張する。標準的経済学では、家計や企業が合理的期待を用いて、効用を最大化する意思決定をすると考える。こうした「合理的期待形成理論」の欠陥は、近年でこそ行動経済学者によって指摘されてきたが、マクロ経済モデルを置き換えるには至っていない。著者のドイン・ファーマー(Doyne Farmer)氏は、人間の合理性には限界があるとの前提に立ち、既成概念にとらわれず、複雑系ツールを経済学の研究に応用する。
カオス理論の研究者であり、「ウォール街の物理学者」としての経歴も持つ著者は、幼少時代のボーイスカウト活動を通じて、科学への探求心を育んだ。カジノのルーレット勝率を上げるべくコンピュータを脇の下や靴の中にしのばせて実験した大学院生時代、株式市場を予測する会社の設立を通じて利益を上げた起業家時代を経て、本流の経済学に反旗を翻す現在(本書刊行の2024年4月)に至るまで、「物理科学」から「社会科学」への関心のシフトはあれども、著者の野心と情熱は一貫している。

以下では、(1)複雑系の理解・シミュレーションの重要性、(2)経済学の価値、(3)気候経済学とトランジションの順に、要点を紹介する。そのうえで、本書の提言を評価する理由を述べる。
- 複雑系(complex system)の理解・シミュレーションの重要性
1.1 複雑系とは何か
「カオス理論・複雑系・マシンラーニング」の三つに知見を持つ著者は、本書の「Part I:複雑系経済学とは何か?」の冒頭において、まず「複雑系(complex system)」とは何か、“人間の脳”や“アリの巣”を例として解説する。意識が数十億のニューロンの相互作用から生まれるように、また、個々の能力は低いアリが巣全体としては洗練された行動をとるように、「創発特性(複数の要素やパーツが組み合わさることによって初めて現れる全体としての特性)」を持つシステムが複雑系である。そして、「経済」とは単なる複雑系ではなく、新しい状況に適応できる(adaptiveな)複雑系であるがために、生物学的概念が有用であると著者は指摘する。
著者が複雑系経済学のポテンシャルを信じる根拠には、経済をエコシステムと捉えていることがあろう。生物学では、相互に作用・影響し合う種の集合体を「エコシステム」と呼ぶ。経済は、家計に属する労働者、その家計を構成する消費者など、専門化した有機体が複雑に絡み合ったエコシステムである。そのエコシステムを理解することは、ネットワークの観点から経済を考えることを意味する。
経済予測に改善余地があると著者が考えるようになった根底には、大学院時代の経験もある。著者はルーレット盤の予測機械を開発した経験により、ランダムに見える事柄も予測可能であることを学んだ。ルーレット盤は「初期条件への敏感な依存」の好例であるが、この性質こそカオスの第一の特徴である。従って、著者は経済のカオス的性質を理解することで、経済予測が改善できると考えるようになったのである。
1.2 シミュレーションの重要性
標準的経済学は、経済の変化は外的影響(ショック)によってもたらされるとする。エコノミストはショックを予想できず、経済がどのように均衡に戻るかを予想するのみである。一方、カオスの第二の特徴は内生的な動きであり(外生的ショックがなくとも、システムは決して収まって静止することがない)、著者は内生・外生の双方の組み合わせに起因して、経済は変化すると考える。
現在、コンピュータシミュレーションは、現実世界の無数のシステムのデジタルツインをつくりあげることを可能にし、ほぼすべての科学分野で活用されているが、経済学での活用は不十分であると著者は指摘する。エコシステムとしての経済を理解するためには、複雑系の中核的概念であるネットワークに加え、シミュレーションを重視する必要がある。
しかしながら、物理科学とは異なり、社会科学におけるシミュレーションは困難であることも、著者は認める。すなわち、原子は考えたり選択をしたりすることはなく、星は万有引力の法則に従うが、人の行動に関してはあらゆる状況に適用できる法則が存在しない。人は自由に意思決定を行う主体であり、その行動の予測は難しい。加えて、第2次世界大戦以降の景気循環は10~12程度しか存在しない(対して、最も単純な種類のカオスであっても、発見には数千のサイクルを必要とする)。
それにもかかわらず、著者は高い解像度で経済をモデル化することを、諦めない。エージェントベースモデルを通じて、パンデミックの渦中での経済予測と政策提言、米国の住宅市場バブルに関するボトムアップアプローチによる分析などに、果敢にチャレンジする。紙幅の関係で詳細は割愛するが、膨大なデータと計算に基づき、非線形的な人間の行動を取り入れたモデルを構築しようとするのである。交通シミュレーションのように意思決定が単純な場合は、モデルの当てはまりはよいが、複雑な事象のシミュレーションには限界がある。利用できるデータに制限があるためである。しかし、「(決して完ぺきになることはないが)有用なレベルまでシミュレーションモデルを改善することができる」と、著者は一貫したスタンスを貫く。
- 経済学の価値
2.1 信頼できるロードマップとしての経済学
エコノミストが正反対の結論に達する事例として、「緊縮財政理論」が挙げられる(著者はギリシャ危機時の著名経済学者ポール・クルーグマン氏と独蔵相の論争を引用しているが、日本においても財政規律派とMMT(現代貨幣理論)派の対立が知られている)。しかし、同じ事柄について、左派もしくは右派エコノミストいずれもが、元から支持するおのおのの政策推奨に整合的なモデルを構築できることは本末転倒であり、信頼できるロードマップとしての経済学の価値が毀損(きそん)される。この種の本末転倒を、著者は懸念する。また、経済理論は「できる限り客観的で、fact-drivenに」実証されるべきであると、主張する。
2.2 「ルーカス批判」と合理的期待
経済学におけるメインストリーム理論の変遷について、本書は「Part II:標準経済学⇔複雑系経済学」の冒頭で振り返る。ここでは詳細に立ち入らないが、マクロ経済学における予測理論は、20世紀後半のいわゆる「ルーカス批判」によって、革命的に変化したことが重要である。なぜなら、合理的期待が(ミクロ経済学のみならず)マクロ経済学においても優位となり、DSGE(Dynamic Stochastic General Equilibrium)モデルと呼ばれるミクロ基礎のあるモデルが、中央銀行などで利用される流れを導いたためである。
メインストリーム経済学の理論は、「各経済主体に効用関数を仮定→合理的期待を使用(各主体は効用を最大化する決定のセットを発見)→経済変数の均衡値を解く」というステップを踏む。行動経済学者が「経済的合理性のみに基づく人間像」は現実から乖離(かいり)していると問題意識を提起し、改良が試みられてきたものの、これら三つの柱は、大きくは変化していない。
2.3 メインストリーム経済学へのアンチテーゼ
不確実性(将来イベントの確率が分からない状態)が高く、場合によっては将来イベントが何かさえ分からない現代において、経済主体は期待効用を最大化できるであろうか。著者は効用最大化を全否定することに対しては、慎重である。しかし、少なくとも複雑な状況では、方程式を解くことが難しくなると指摘する。
そして、著者は正面から、メインストリーム経済学の三つの柱を置き換えようとする。経済学の伝統を無視しているとの批判もあるが、エージェントベースモデルにより、「各経済主体に意思決定手法(経験則・単純推論・学習など)を割り当て→必要な限りの真実味を持って、実際に関係する機関・市場メカニズム・他の経済的要因をまねる(重要でないディテールは導入しない)→時間の経過とともに集団相互作用をシミュレーション」という方法論を、著者は主張する。
標準的経済学が経済をトップダウンで理解しようとするのに対し、複雑系経済学は(複雑なネットワークとしての)経済をボトムアップで理解しようとする。こうした複雑系経済学の考え方の多くは、20世紀からすでに存在していた(1950年代にハーバート・サイモンによって明確化された)。しかし著者は、サイモンの時代には、コンピュータパワー・データ・人間の意思決定への理解が不足していたため、メインストリーム経済学が彼の業績に追随しなかったと指摘する。そして現代では、 AI とマシンラーニングの進化により、複雑系経済学は定性的科学から定量的科学へ移行することが可能となったと主張する。これは、メインストリーム経済学への強烈なアンチテーゼと言えるだろう。
- 気候経済学とトランジション
3.1 気候経済学
本書の紙幅の3割は、「Part III:金融システム」の分析に割かれており、中央銀行や金融規制当局に示唆を与える。しかし、ここでは金融システムの部を割愛し、「Part IV:気候経済学」の部に絞って取り上げたい。なぜなら、グリーンエネルギートランジションを確実な航路で進ませることは社会経済全体へのインパクトが大きく、かじ取りを担う経済学の役割が大きいためである。
著者がエネルギートランジション分野での自己の貢献可能性に気が付いたのは、2008年に米エネルギー省から依頼を受けたことが契機となった。当時、どのグリーン技術が化石燃料を最も早く安価に代替できるのか、各種エネルギーの20~50年先のコストを知る必要があった。
著者は、エネルギー関連排出の問題に対処することで、多額のコストを削減できる可能性が高いと、指摘する。オックスフォード大学での著者の研究グループの技術予想によると、グリーンエネルギートランジションは最終的には、エネルギー価格をこれまでにない水準まで低下させる。従って、「純粋に経済的観点から、たとえ気候変動が脅威ではないとしても、われわれはエネルギートランジションを素早く進めるべき(20年以内に行うべき)」と主張する。
3.2 予測される技術進歩とトランジションコスト
技術進歩について、著者らの研究グループは、六つの仮説を置き、予測力の高い二つ(ムーアの法則・ライトの法則)に絞ったうえで、将来に起こり得る結果の分布を予測する公式を編み出す。しかし、クリーンエネルギー技術のコスト低下が、将来も同じスピードで進むのかどうかは、不確実性が高い。エネルギートランジションの総合的コストがどのように推移するのか、シナリオ分析が必要とされる。メインストリーム経済学で優勢なアプローチは、integrated-assessmentモデル(地球温暖化を抑制する特定のターゲットに向かって、代表的家計の効用を最大化する“最適な”エネルギートランジションを算出するモデル)である。著者は、定量的評価のために、(1)integrated-assessmentモデル、(2)IEA(国際エネルギー機関)による世界エネルギーモデル、(3)自らのモデルの三つを比較する。
このうち前二者のパフォーマンスに関しては、1990年代以降のトラックレコードから確認すると、当てはまりがよいとは言いがたい。再生可能エネルギーについて、利用を過小評価、コストを過大評価してきたためである。他方、自らのモデルにおいては、コストの確率分布に基づき三つのトランジションシナリオを設定、移行スピードが迅速なシナリオが最もコストが低いとする。
- 羅針盤としての複雑系経済学への期待
映画『オッペンハイマー』には、学者が黒板に数式を書き連ねていく場面があるが、オッペンハイマーの伝記を読みフェローシップとなった著者は、黒板ではなくコンピュータでデータを扱う物理学者である。データ整備やコンピュータ計算力が不足していた時代には、経済モデルを単純化する必要があった。テクノロジーが進歩した現代においても、現状のメインストリーム経済学のアプローチがベストであり続けるのか否かをわれわれに問いかける本書は、産官学それぞれの関係者にとって、得るところが大きいであろう。まず産業界は、IEAのエネルギー見通しなどの規範的な予測の精度が必ずしも高くないこと、テクノロジー変化が本質的に不均一であることに留意すべきである。中央銀行・規制当局は、カウンターパーティーを特定できるデータを利用可能な強みを最大限いかし、経済モデルの改善に努めるべきである。学界は、単一の学問分野では解決が難しい複雑な課題への対処のため、学際的な取り組みを強める必要がある。
しかし、本書は多くの取り組みが紹介されているがために、詳細が必ずしも明らかにされていない点は、残念に感じられた。たとえば、産業のサプライチェーンの深さを食物連鎖の栄養段階(trophic level)に見立てることで米国・中国の経済構造を比較した研究は、検証に使われたデータセット・統計的優位性が数字で示されていない。詳細が示されていれば、「ある国の GDP 成長率が、その国の trophic level に比例する」とする著者のモデルに関して、より直近のデータを用いた再検証も可能になるであろう。
ノーベル賞受賞経済学者ウィリアム・ノードハウス氏のDICE(Dynamic Integrated Climate Economy)モデルが、1990年代以降、更新・改善が続けられてきた背景には、モデルが公開されていることが大きく寄与している。英国政府が2006年に取りまとめた「気候変動経済学に関するスターンレビュー」や、本書の著者は、割引率をDICEモデルよりも低く設定する。モデルがオープンにされているからこそ、議論が進捗(しんちょく)する一例と言えよう。
著者は、トランジションを単にエネルギー分野のみの問題と片付けず、職業トランジションや生産ネットワークのモデルを組み合わせたうえで、雇用情勢の変化やボトルネックの予測に取り組んでいる。こうした野心的なプロジェクトが、広く多くの関係者の目線から議論され、正しい政策形成を導くためにも、ボトムアップアプローチの詳細が公開されることが望ましい。複雑性・不確実性が加速度的に増す現代において、データやテクノロジー進歩を最大限に活用する有効な経済学とは何か、一石を投じる良書である。
https://www.penguin.co.uk/books/284357/making-sense-of-chaos-by-farmer-j-doyne/9780141981208
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本稿は 日立総合計画研究所『先端文献ウォッチ』掲載記事(2025年2月18日付)を、評者の了解を得て転載しました。
https://www.hitachi-hri.com/research/researchreport/watch/watch004.html
評者紹介
山口英果(やまぐちえいか)
日立総合計画研究所グローバル情報調査室主任研究員。地政学リスク、環境分野の政策動向などの調査に従事。東京大学経済学部卒業後、日本銀行を経て現職。最近の研究テーマは、中央銀行デジタル通貨、脱炭素。