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「和解の力」の言葉は なぜ沖縄の地では、心に響かないのか。問われる国のESG意識(藤井良広)

2016-12-28 23:33:14

okinawa1キャプチャ

 

 この国の1年が終わろうとしている。安倍首相は米ハワイ・真珠湾を訪問し、日米両国の「和解の力」を強調した。75年前、勝ち目のない戦(いくさ)の火蓋を切った一方に対し、もう一方は、周到な逆襲から圧倒的な駆逐、軍民の境を越えた無慈悲の爆撃・攻撃・原爆投下で、相手を完膚なきまでに叩きのめした。

 

 お互いに心が通わず、お互いに猜疑心の虜だったかつての日米の統治者たちに比べ、戦後71年を経た現在の両国の統治者たちは、どれだけ思慮に富み、心豊かで、賢い人材に代替わりしたのだろうか。

 

 日米首脳会談で用意された議題の中で、安倍首相は沖縄の辺野古基地建設問題で、沖縄県との訴訟で国側勝訴が確定したことを、オバマ大統領に報告したという。「寛容の心、和解の力を、世界は今こそ、必要としている」。安倍首相の口を出た言葉は、だが、沖縄の地では空虚に響いたに違いない。

 

 辺野古訴訟では、司法は国に軍配を上げた。だが、そこで沖縄県と国の「和解の力」は結ばれたのだろうか。「寛容の心」は、花開いたのだろうか。71年前の沖縄戦20万の死者のうち、半数近くは民間人だったとされる。米艦船から途切れることない艦砲射撃は「鉄の暴風雨」と形容された。沖縄は本土防衛の「捨石」だった。

 

 今も日本にある米軍基地の74%が沖縄に集中している。辺野古の問題は、沖縄の中での基地のたらい回しと、多くの沖縄の人が実感している。降り注いだ「鉄の雨」はその後も消えず、「鉄の水溜り」のような鋼(はがね)の基地を、沖縄のあちこちに点在させたまま、71年の時が過ぎただけと。

 

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 企業の経済活動に伴うESG(環境、社会、ガバナンス)評価が問われている。これらの影響を企業価値の中にどう取り込むか。その成否にこそ企業の持続可能性(Sustainability)がかかっている。では、国はどうか。国の71年にわたる沖縄への対応は、ESGを国の価値に取り込み、経済偏重ではなく、国の総合的な持続可能性を向上させることに役立ってきたのだろうか。

 

 島中に展開する米軍基地が及ぼす自然環境への影響。基地から浸み出す廃棄物・汚染物質による長期の健康影響被害。米軍兵士による犯罪被害の多発。相次ぐ軍用機の墜落事故。強制的な土地収用。人権の無視--。軽々と扱われてきた沖縄の環境と社会的な諸要因。

 

 何よりも、沖縄の人々の意思を無視した米軍基地の高度集積状況を71年間も改善せず、継続しようとする政府の姿勢は、国のガバナンスの原則に真っ向から反すると言わざるを得ない。民主主義国家においては、国は住民に負担を強いる軍事基地のメリット・デメリットを、影響を直接受ける人々に説明する責任を負う。

 

 軍事的、国防的理由は、政府が主張するだけでは説得材料にはならない。国の説明責任は、単に理由を言葉にするだけではなく、影響を受ける住民が納得できるように丁寧に説明する努力が必要だ。この説明責任能力もガバナンス力を左右する。国の安心・安全と、国のESG評価は、どちらかをとるという選択肢ではなく、ともに満たせなければ統治者としての役割は果たせない。

 

 国の統治能力の見極めには、ステークホルダーとしての多くの国民、特に沖縄問題においては、本土のわれわれの役割が大きい。沖縄の人々の犠牲によって、本土の安心・安全を得られるという「幻想」は、71年前にすでに否定されている。沖縄の人々の安心・安全こそが、日本全体の安心・安全につながることを忘れてはならない。

 

 2017年。来るべき年に問われるのは、本土に安住するわれわれではないか。

 

 

写真は、島崎ろでぃー氏撮影)http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/23/takae-rody-shimazaki_n_13809760.html?utm_hp_ref=japan-society

 

藤井 良広 (ふじい・よしひろ) 大阪市立大学卒、日本経済新聞元編集委員、上智大学客員教授。一般社団法人環境金融研究機構代表理事。神戸市出身。