書評:「カーボンニュートラルをめぐる世界の潮流~政策・マネー・市民社会~」(白井さゆり、文眞堂)
2022-09-12 00:31:28
本書は、年々激化する気候変動に伴う自然災害等を未然に食い止めるために求められる「2050年のネットゼロ(カーボンニュートラル)」に向けて、胎動を強めている世界の潮流の主要なポイントを整理し、その流れる行き先を展望することを目指している。副題に「政策・マネー・市民社会」とあるように、これらの3つの要因を軸として、グローバルな潮流の迸(ほとばし)りを丹念に追いかけている。
著者が意識する3つの要因が潮流に及ぼす影響は、国によって、地域によって、あるいは気候科学による分析、科学技術の進展、企業の取り組み等によっても異なる。それらの複雑な影響と展開について、著者はこれまで、経済学者および政策提言者として取り組んできたグローバル経済の分析、金融政策の考察、企業経営への助言等の豊富な経験に基づいて、極めて明瞭かつ、わかり易い記述を展開している。この「わかり易さ」が本書の特徴の一つだ。
「カーボンニュートラル」は気候変動を加速する二酸化炭素(CO2)等の温室効果ガスの排出量を実質ゼロにすることで、地球の温暖化現象を抑制するが目的だが、このことは、われわれ人類が産業革命以来実践してきた現下の経済活動のアプローチを根底から変革することにつながる。人類は、石油・石炭・天然ガス等の化石燃料エネルギーの開発・使用によって生産力を格段に強化してきた。だが、こうしたエネルギー源そのものの転換が必要なのだ。
そうした転換を2050年という時間軸の中で、グローバルに達成できるか。転換をするには、現状のエネルギー構造を化石燃料中心から再生可能エネルギー等のクリーンエネルギー主導に切り替えなければならない。そうした転換を、各国の政策と金融市場の力、そしてそれらに対する市民社会の実践と支持で実現できないと、人類は気候変動によって引き起こされる物理リスクの顕在化によって、手ひどい打撃を受ける可能性が濃厚なのだ。
本書はこうした人類史、あるいは地球史における大変革に対応した「解」を求める取り組みを、経済学者らしい分析力で過不足なく検証、整理している。基本となる気候変動要因は従来の経済・経営学では、非財務要因として扱われ、定量化・価値化の対象外とされてきた。だがカーボンニュートラルの世界では、気候シナリオ分析やカーボンププライシング、あるいはグリーンな事業を評価するタクソノミー、さらにカーボンを含めた非財務情開示の標準化等の新たな政策手法を活用して、これらの非財務要因を財務要因とを連携・融合させる試みが進んでいる。本書のもう一つの特徴は、主要な基本政策手段・取り組みをほぼカバーする網羅性にある。
本書はまず第1章で、カーボンニュートラルを実現するためのリスク要因の把握と、それらに対する価格付け政策の紹介、従来からの経済政策との関係等に焦点を当てている。3要因の第一の「政策」について、カーボンニュートラルを実現するために新たに登場する複数の政策手段を踏まえて、既存の経済政策との統合化について検証している。
第2章は、もう一つの要因である「マネー」に視点を移し、「サステナブルファイナンス」を分析している。気候変動がもたらす金融のシステミックリスクという新たな危機(グリーン・スワン)の浮上を起点に、金融市場のプレイヤーが担う役割と、それらのプレイヤーの取り組みを支えるサステナブルな情報開示の必要性とその課題に目を向けている。
第3章では、エネルギー転換をはじめ、産業革命以来の経済構造の転換に取り組む企業経営の変革をとらえている。第4章~第6章はそれらの取り組みを、欧州(EUと英国)、中国、米国のそれぞれの国(地域)について掘り下げ、政策、マネー市場、企業、市民社会等の具体的な展開を活写するといった構成だ。
最後の第7章は、マネーの流れのいわば「灯台」の役割をする中央銀行の政策対応、グリーン金融政策等に焦点を合わせている。著者は日銀審議委員を経験しているだけに、その指摘は有益だ。日本の政策、市場、市民社会の3要素の動きについては、他の欧米や中国のように「章」を設けず、「最後に」として「補論」の形で取り上げている。
同分析では、エネルギー転換では水素・アンモニア技術、再生可能エネルギー、蓄電池、スマートグリッド等への「期待」を示し、マネーの分野では「グリーンファイナンス市場」「グリーン国債」「カーボンクレジット市場」等の「期待」を示している。著者のこれらの「期待」が形を成すためには、迅速で適格な政策の判断と、それに対する市民社会の健全な支持が基盤となる。それらを読者に問いかける形でもある。
(藤井良広)
著者紹介:
白井さゆり(しらい・さゆり)
慶應義塾大学総合政策学部教授。国際金融基金(IMF)エコノミスト、パリ政治学院客員教授、日本銀行政策員会審議委員、英EOS at Federated Hermesの上級顧問等を歴任。現在、アジア開発銀行研究所Visiting Fellowも兼任。著書に「超金融緩和からの脱却」(日本経済新聞社)、「SDGsファイナンス」(日経プレミアシリーズ)等多数。