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誰が”第三者”か 乱造「東電検証委員会」と「裁判官主導委員会案」(FGW)

2012-07-12 03:47:43

膨大な報告書を提出した国会福島事故調査委員会
膨大な報告書を提出した国会福島事故調査委員会


<何がわかったのか?>

 国会の東京電力福島事故調査委員会が、電話帳ほどもある報告書を国会に提出した。これで、政府の事故調査検証委員会、民間の検証委員会、東京電力の社内調査委員会等と、「3.11」の事故原因とその責任を検証する委員会の結果が出そろった。だが、「で、何がわかったの?」というのが正直な感想ではないか。各界の識者で構成したこれらの委員会が解明した結果を一言で言い表せる人がいたら、教えてほしい。「何がわかったのか」を。
 膨大な時間と人手をかけてまとめた報告書の厳かな公表セレモニーと、その後の記者会見。満足げなのは、ゴールにたどり着いて重荷を下した気分の各委員会の面々ぐらいではなかったか。報道の記者たちも、膨大な報告書自体の解明に力を注がざるを得ず、各報告書が解明したと称する事故原因の納得性は、いずれも今一つ鮮明ではなかったように思える。

 それほど大変な事故だったともいえる。だが、原因自体はもっとシンプルではなかったか。津波は自然災害だが、東電福島第一発電所については、それに耐えられる対策が取られていなかったことに尽きる。同発電所は東電の所有物だから、事故回避に失敗した責任は東電にある。電力事業は認可事業で、原発については行政の認可・チェック体制の下に置かれていたのだから、行政に明確な監督責任がある。この二つは、別に大仰な委員会を組織しなくても、だれの目にも明らかだろう。

<誰も責任をとらない>

 もう一つ明らかなのは、それらの責任は当初から明確にもかかわらず、今に至っても、だれも明確な責任をとっていないことである。東電の清水前社長は引責したわけではないし、東電が用意した関連会社に天下って、余生を過ごそうとしている。最高実力者の勝俣前会長は先の株主総会で辞任したが、経営責任をとったわけではない。経済産業省、原子力委員会、保安院らの政策責任者たちも同様だ。

 特にお粗末と言わざるを得ないのが、国会委員会報告書ではないだろうか。委員長の黒川清氏は「憲政史上初めて、政府からも事業者からも独立した委員会」と胸を張った。確かに、原発官僚と電力会社のいびつな力関係を指摘し、事故時の首相だった菅前首相の東電への対応が混乱に拍車をかけたとの批判などを盛り込んだ。しかし、これらはメディアの既存報道でもすでに指摘されてきた点であり、新たな事実の解明、原因の整理と明確化というよりも、単なる「断言」という面が少なくない。

<政治責任を素通りした国会委員会>

 むしろ問題は、地震多発国家の我が国に54基もの原発を建設した過去の自民党の原子力政策の無責任性、さらに党派を問わず選挙区地元への原発誘致、補助金獲得に奔走して「国権」を「利権」にすり替えてきた多くの政治家の責任ではなかったか。しかし、国会調査委員会こそが、そうした歴代の政治家、国会の責任を問うべき立場にあったにもかかわらず、報告書はその点をほとんど素通りした。

 同報告と他の委員会報告との比較、対照については、メディアの役割に期待したい。ただ、今現在でも、それぞれの報告書を精査した本格的な報道がないのは寂しい限りである。

国をも揺るがすような大事件、大事故、あるいは政府や国が関与したような場合、どうすれば公平・公正で、的確な分析に基づいた検証と、明確な解決策を提示できるのか。これは確かに容易な作業ではない。だが、この作業を形だけ、言い訳だけで済ますと、再発防止がおろそかになるだけではなく、何よりも国民の政府・政治・公に対する不信感を増長し、社会的な不安定にもつながりかねない。

 事故や事件の性格は異なっても、各国でも国を揺るがす出来事は引きも切らない。あいまいになってしまったのがイラク進攻への米英の戦争責任だったし、2008年リーマンショックの際の金融機関の救済策も、市場の目先をかわす場当たり作業の積み上げだったようにも映る。欧州債務危機はリーマン危機時の場当たり政策の綻びが一因ともいえる。

<「Judge-led Committee」の提案>

 そうした国がらみ事件の一つで、目下、英国金融界を揺るがしているバークレイズ銀行による英LIBOR操作事件を巡る英政界での議論がを引いた。同事件はリーマン危機当時にロンドンの金融街シティの基盤維持のための政治的意図も背景にあるのではとみられ、英中央銀行、英務省、さらには当時の政権のかかわりに市場の関心が集まっている。
 そうした視点が飛び交う中で、事件表面化直後に、野党労働党のミリバント党首が「Judge-led Committee」の設置案を提唱した。現在は同事件については、英議会の委員会で参考人質問等が続けられている。ミリバント氏の真意は、与野党の政治駆け引きの場である国会での質疑では、本当の事実は解明されないとの判断と思われる。実際、経済運営の失敗で人気低迷の英保守党政権は、2008年時点には政権の座になく、不祥事に直接絡んでいないだけに、この問題でライバル労働党が信頼を低下させることを期待している風でもある。

 ミリバンド氏のいう「Judge-led Committee」とは何か。それはそのものずばり、裁判官が法廷ではなく、中立的な調査委員会を率いて真実の解明を行うというものである。法的な権限・解釈の絡む出来事を極力、公平・公正に評価する役割を裁判官に期待するのは、もちろん法律の専門家であるためだが、同時に、法曹界の中でも弁護士、検事とも違う裁判官の役割への期待、あるいは信頼があるためだ。裁判官は自己の立場のための論説を主張するのではなく、多くの事実や言い分の中から客観性を見出し、妥当な決断を下す立場にある。

 逆に言うと、極力、政治の綱引きや思惑から離れて、客観的な判断をする「最後の砦」が司法、中でも裁判官ということになる。国会の調査委員会を率いた黒川氏は医学者であり、政府の委員会の畑村洋太郎氏は工学者である。ともにその分野の専門家だが、法的権限・解釈の専門家ではない。委員の中には弁護士や検察官出身の法律家もいるが、裁判官とは立場と視点が明確に異なる。

 裁判官が、裁判外でもこうした役割を発揮できるかどうかは、ある意味でその国の三権分立の質を問うことでもある。「司法は機能するか」「信頼できるか」が問われるわけだ。そう考えると、政治、行政への不信感が蔓延している日本の現状にこそ、司法のこうした機能を積極的に活用する必要があるともいえる。

 もっとも、仮に日本版の司法主導委員会を立ち上げたとして、単に過去の各委員会の報告書にもう一冊“電話帳”を積み上げるだけに終わるようだと、国権への信頼は回復しない。司法も政治も行政も、わが国への信頼が、国の内外で不安定になったままであることの重みを認識して、責任ある一歩を踏み出してもらいたい。(FGW)