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福島の原発事故は「日本製」?(むささびジャーナル) 国会事故調査委員会の欺瞞は「外の目」に喝破されている!

2012-07-15 23:33:21

日本語と英語で微妙に違う
7月5日に公表された福島原発事故に関する国会事故調の報告書について、GuardianとFinancial Timesがコメント風のエッセイを掲載していたので紹介します。The Timesにも記事は出ていたのですが、これは東京特派員からのレポートで、意見とかコメントというものではありませんでした。

日本語と英語で微妙に違う




まず7月6日付のGuardianに出ていたエッセイは、ロンドンの大学で歴史を教えるNaoko Shimazuという日本人(だと思う)の教授です。エッセイのタイトルは

となっています。この報告書が「文化のカーテンの陰に隠れている」というのですが・・・。

Shimazu教授が取り上げているのは報告書の英文版のイントロ部分で、Message from the Chairmanというタイトルのところです。Chairmanは事故調の黒川清委員長のことですが、イントロの中で委員長が、この事故は大地震、大津波という「自然災害によって引き金を引かれたものではあるけれど」としたうえで

  • It was a profoundly manmade disaster – that could and should have been foreseen and prevented.
    福島の原発事故は完全に人間が起こした災害(人災)であった。起こることが予期でき、防ぐこともできた事故だったのであり、予期も防止もされて然るべきものでもあったのである。


と述べて、さらに次のように述べている部分があります。


  • What must be admitted – very painfully – is that this was a disaster “Made in Japan.”
    大いなる苦痛をもって認めなければならないのは、これが「日本製の」大惨事であったということである。


福島の事故が「日本製」だったとはどういう意味なのか?委員長によるとあの事故の根本的な原因は、日本文化にしみ込んだいろいろな慣習・因習(ingrained conventions of Japanese culture)にあるのだそうです。具体的には、盲目的服従(reflexive obedience)、権威を疑問視することを嫌がる態度(reluctance to question authority)、決まっていることに献身的にこだわる(devotion to ‘sticking with the program’)、グループ中心主義(groupism)、閉鎖性(insularity)などが列挙されている。この種の習癖は日本人の誰にでもあるものなのだから、


  • Had other Japanese been in the shoes of those who bear responsibility for this accident, the result may well have been the same.
    この事故について、他の日本人が責任者の立場にいたとしても結果は同じであっただろう。


ということになる。つまり福島の原発事故は、極めて日本的な思考方法や国民性が故に起こったものであると言っているわけです。“Made in Japan”とはそういう意味です。首相が菅さんであってもなくても、東電の社長が別の人であったとしても、結果は同じであったはずだということです。みんな日本人なのだから・・・。

Shimazu教授が指摘しているのは、福島の事故を日本人の国民性とか日本人論(Japanese essentialism)のようなものと関連付けて語ることで、事故の本質を「文化のカーテン」の陰に隠してしまい、より深く事故を検証しようとしなくなるかもしれないということです。ましてや「服従」「権威に弱い」「閉鎖的」「グループで固まりたがる」等々は必ずしも日本だけの現象ではないのだから、この原発事故やそれへの対応をmade in Japanと言ってしまうのは正しくないというわけです。

一方、7月9日付のFinancial Timesのサイトが国会事故調の報告書に関連してコロンビア大学のジェラルド・カーティス教授の寄稿文を掲載しているのですが、カーティス教授もまた「福島の事故を日本文化のせいにするな」(Stop blaming Fukushima on Japan’s culture)と批判しています。

カーティス教授は報告書が「誰が悪いと責めることが目的ではない」(goal is not to lay blame)とか「ほかの人間が責任者だったとしても結果は同じことだった」などとしている点について「私の意見は全く違う」(I beg to differ)として次のように語っています。

  • Had Mr Kan not stormed into Tepco headquarters and tried to exercise some authority over the company’s executives, the situation might have been far worse. If Tepco had had a more competent president, its communications with the prime minister’s office would have been better.
    菅(直人)氏が東電本社に乗り込んで同社の幹部に対してある種の権威を行使しようとすることがなかったら、事態ははるかに悪くなっていた可能性だってあるのだ。もし東電の社長がもっと能力のある人物であったならば首相官邸とのコミュニケーションはもっとよくなっていたはずなのだ。


教授によると人を責めても仕方ないとか、これも日本文化のなせる業だという言い方は「究極の言い逃れ」(ultimate cop-out)にすぎない。いわゆる「原子力ムラ」の人たちは彼らなりの特殊な文化を共有しているかもしれないが、「それは別に日本に限ったことではない」として、この報告書に見る福島の事故への対応は、リーマン・ブラザーズの崩壊とそれに伴うアメリカの経済メルトダウンへの対応と同じである。二つの「事故」の間の共通点は、有意義な改革に抵抗し、人災であるにもかかわらず具体的な人間の責任を追及しようとしない点にあると言っています。そしてカーティス教授は


  • The Fukushima Commission report “found an organisation-driven mind-set that prioritised benefits to the organisation at the expense of the public.” Well, if that is Japanese culture, then we are all Japanese.
    国会事故調の報告書は「公共の利益を犠牲にしてまでも組織の利益を重視しようとする思考方法」について触れている。もしそのような思考方法が日本文化なのだとしたら、我々はみんな日本人だということになるのだ。



と結論しています。


 

 






▼ロンドンのNaoko Shimazu教授がもう一つ指摘しているのは、黒川委員長のメッセージが英文版日本語版では違うということです。日本語版では、この事故がmade in Japanというような記述はない。日本語版の中でこれに近いようなことを言っている部分をあげると


  • 世界が注目する中、日本政府と東京電力の事故対応の模様は、世界が注目する中で日本が抱えている根本的な問題を露呈することとなった。想定できたはずの事故がなぜ起こったのか。その根本的な原因は、日本が高度経済成長を遂げたころにまで遡る・・・<以下略>


▼ということになるかもしれない。日本語版と英語版の「委員長メッセージ」を読むと(私などには)英文版の中身がいかにも「外人向け」に書かれたように見える。日本人として長年ロンドンで教えているNaoko Shimazu教授も似たような感想を持ったのかもしれない。なぜ日本人に向けて書いた日本語のメッセージをそのまま英訳しなかったのか?黒川委員長を始めとする委員たちのアタマに「日本人の言うことはガイジンさんには分かりっこない」という思い込みがあったのではありませんか?黒川委員長らはそのつもりはなかったのかもしれないけれど、福島の原発事故をmade in Japanと定義してしまうことで、この事故の経験をほかの国の人々と共有しようという姿勢がなくなってしまったように見える。

▼これも委員長らにはそのつもりはないのかもしれないけれど、日本語のイントロを読んで私(むささび)が強く感じたのは「日本人全体が反省しなきゃね」という姿勢です。私などが物心つく前の日本で太平洋戦争について「一億総懺悔」ということばが流行ったように聞いています。軍部だけが悪いのではない、軍部の独走を許した日本人みんなが悪かったんだ、だからみんなで反省しましょう・・・ちょっとだけ聞くと尤もらしく響くけれど、なんでも一般論で問題の本質をぼかしてしまうという姿勢です。福島の事故を「日本が高度経済成長を遂げたころにまで遡って語る」などと言い始めたらきりがないのではないかと思います。

▼カーティス教授は、日本のインテリの間に根深く存在する「日本は特殊」論を糾弾しているのだと(私は)解釈します。あんたらいつまで”自分らは特別や”と思い続けるつもりなんや、ええ加減にさらさんかい!ってことです。私もそう思いますね。