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「3.11」における「正義」の不在(古屋力)

2023-03-12 22:03:13

fukushima002キャプチャ

写真は、2011年3月に東京電力福島第一原発で起きた水素ガス爆発)

 

  いまも、「3.11」は、終わっていない。あの2011年3月の東京電力福島第一原発事故の「3.11」から、早いもので、もうすでに12年の歳月が経過した。この12年間を、長かったと捉える人も、短かったと捉える人も、人それぞれ、立場や境遇によって、思いは様々であろう。

 

 あの日、事故当事国の日本が、想定外の事態に狼狽しつつ右往左往している中で、地球の裏側のドイツのメルケル首相(当時)の対応は、冷静、的確かつ迅速、明確であった。それは、見事に、日本とは対象的な対応であった。

 

 事故リスク低減のコントロール実施後に残るリスクを残余リスク(Restrisiko)と言うが、メルケル首相は、「3.11」を見て、原子炉事故は絶対に起こらないという確信は持てないと考え、原子炉事故の残余リスクを受け入れることはできないと判断した。

 

メルケル前ドイツ首相
メルケル・ドイツ前首相

 

 原発事故の被害は空間的・時間的に甚大かつ広範囲に及び、そのリスクは、他の全てのエネルギー源のリスクを大幅に上回ると判断し、福島事故の4日後に3ヶ月の「原子力モラトリアム」を発令し、ドイツ国内で31年以上動いていた7基の原子炉を直ちに停止させた。

 

 同時に、原子炉安全委員会に対し、国内の原子炉が洪水や停電などの異常事態に対して、十分な耐久性があるかどうかについてストレス・テストの緊急検査を行なうよう命じた。物理学者出身の首相らしく、その判断は、冷静沈着で、明確、的確かつ迅速であった。

 

 以降、メルケル首相は、「3.11」を契機に、「原子力は過渡期のエネルギーとして必要だ」という立場から転向し「経済に悪影響を与えない限り、原子力を出来るだけ早く廃止するべきだ」と主張し始め、「脱原発」に踏み切った。

 

 そうした健全かつ迅速な政治判断が、ドイツにはあった。しかし、残念ながら、事故当事国日本には、それがなかった。あの「3.11」直後の国政選挙ですら、原発が議論の争点にもならなかった当事国日本に対して、世界は、唖然とした。その彼我の差は、決定的であった。

 

 その後、12年の間に、世界中で、コロナ禍やウクライナ戦争等、あまりに多くの想定外の深刻な問題が多発続出した。難問山積で何ら明るい見通しがつかないまま、人類は当惑しながら、途方に暮れて、暗中模索状態で、今日に至っている。

 

 こうした混迷する世界情勢の中で、日本には、「3.11」以降、ずっと引きずっている深刻な原罪がある。それは、「3.11」の本質的な原因が、なんら総括も反省も引責もなく風化しつつあり、抜本的解決ないまま放置されているという驚くべき事実である。そして、こともあろうに、その宿痾の再発の危険性がいまや白昼堂々と露呈しつつある。

 

 「喉元すぎれば」ではなかろうが、あのカタストロフな原発事故について誰も引責しないまま、その反省も抜本的改善もないまま、原発廃炉に向けたブレーキではなく、いまや、原発再稼動、新設に向けたアクセルをふかしはじめる始末である。もはや、狂気の沙汰である。

 

原発の60年操業延長と新設方針を打ち出した岸田首相
原発の60年操業延長と新設方針を打ち出した岸田首相

 

 こうした実態をさらに突き詰めれば、そこに通底しているのは、日本のエネルギー政策に本質的に欠落している宿痾とも言うべき「エネルギー正義(Energy justice)の不在」が常態化している事実である。これは、国家の品格の問題であり、恥ずべき事態である。

 

 この健全な「正義」がドイツにはあった。そして、健全に機能している。しかし、事故当事国日本にはなかった。そればかりか、むしろ「正義」がないがしろにされ、悪化しつつある。これでは、第二の福島原発事故が起こってもおかしくない。これは由々しき深刻な事態である。

 

 「エネルギー正義」は、一般に、以下の3つの「正義」から構成されている。(注:ちなみに、ここでいう「正義(justice)」とは、「公正さ」の意味で使う)

 

  1. 「分配の正義」=利益と負担の分配が十分公平にされている正義

 2.「承認の正義」=社会的弱者や地域住民等のstake holderの利益や価値が、企業や行政に十分承認されている正義

  1. 「手続の正義」=社会的弱者や地域住民等のstake holderが、意思決定手続に十分参加できている正義

 

 はたして、日本のエネルギー政策は、「3.11」以降、この3つの正義が、十分担保されてきたのであろうか。わが国の実態は、どうなのであろうか。

 

 結論から言うと、わが国での「正義」の実態は、惨憺たるものである。以下、「3.11」およびそれ以降のわが国における「正義」の不在について、幾つか、事例を挙げて検証しておきたい。

 

 周知の通り、エネルギー価格の高騰もあり、手頃な価格でエネルギーにアクセスできないエネルギー貧困の増加が問題となっている。危険で忌避されがちな原発の立地選定も、その実態は、過疎化等で主たる産業もない脆弱な地方の弱みにつけこんで、彼らのかけがえのない価値観や人生や家庭を踏みにじって、お金の力で一方的にねじ伏せながら強行してきた問題の闇は、依然として総括すらされないまま今日に至っている。

 

 また、原発再稼働や新設の議論においても、依然として、官僚が都合よくお膳立てした審議会と閣議決定で半ば強引に決定する手法も、「アリバイ」づくりのための形式的儀礼にとどまるパブリックコメントも、旧態依然で改善が見られないばかりか、むしろ形骸化が加速しているのが実態である。こういった行政の作業は、茶番であり、偽善であり不正義である。

 

 こうした不正義と不公正と偽善が、常態化し、むしろ悪化しつつあり、厚顔無恥にも、白昼堂々と、まかり通っているのが、恥ずかしくも、日本の実態なのである。はたして、誰のための、行政か、誰のための政治か、誰のための国家なのであろうか。そこに国家の品格は微塵もない。そして、国民不在のまま、粛々と皮相的な政策が空虚に展開されてゆく。

 

 その極みが、今年2023年2月10日に閣議決定された「GX(グリーントランスフォーメーション)実現に向けた基本方針」と「GX推進法案」の一部始終である。

 

GX構想をアピールする経産省出身の西村康稔経産相
GX構想をアピールする経産省出身の西村康稔経産相

 

 わが国政府も、すでに、2030年度の温室効果ガス46%削減、2050年のカーボンニュートラル実現という国際公約を掲げ、気候変動問題に対して国家を挙げて対応する強い決意を表明している。だが、しかし、その実態は、恥ずかしいことに「羊頭狗肉」と言わざるを得ない。

 

 多彩な自然を享受できる地理的環境に囲まれている日本は、太陽光、風力、水力、地熱、バイオマス等の豊富な再生可能エネルギー資源に恵まれている。ドイツ等欧州の何倍もの再生可能エネルギー潜在力を内包しており、むしろ、有利な立地にあるはずである。だが、残念なことに、このGXと銘打った政府方針には、肝心のコアコンテンツである再エネを日本のエネルギー政策の中心に据える明確な意思と具体的な戦略が欠落している。皮相的に「再エネの主力電源化」を標ぼうしつつも、意欲的な目標設定の引き上げも具体的推進策もないのが実態である。まさに「換骨奪胎」の極みである。

 

 そこに再エネを軸としたエネルギーシフトやEV(電気自動車)シフトへの強い意欲は微塵も感じられない。炭素賦課金の2028年度導入、排出量取引の2026年度本格稼働等の計画や気候変動情報開示も含めたサステナブルファイナンス全体を推進するための環境整備も議論されてはいるが、能書きだけで、はたして実効性のある結果を出せるかは疑問である。一見、華やかで総花的な政策論は、免罪符的に再エネを標榜しつつも、その実態は、水素・アンモニア等を軸とした旧態依然の既存重工長大産業への利益誘導型の先行投資支援等が軸で、既得権への忖度感が満載である。ただGXを「やってる感」だけ演出しているに過ぎず、その姑息さが実にお粗末で寒々しい。

 

 しかも、その段取りも手順もお粗末であった。形式的なパブリックコメントを実施し、審議会の結論が閣議決定されたが、「最初に結論ありき」の筋書き通りの唖然とするほど中身の薄い性急な粗製乱造であった。そして、基本方針の説明会・意見交換会も、異常に周知期間が短く設定され、しかも、驚くことに、その大半は閣議決定後の開催であった。

 

 普通、常識的に、パブリックコメントも説明会・意見交換会も、じっくり時間をかけて、丁寧に実施し、そこで汲み取った意見や提言を、誠実に斟酌して、それをもとに審議会で公正な議論を行い、その上で、ようやく閣議決定に持ってゆくのが当たり前だ。にもかかわらず、まったく、本末転倒で国民不在の手続なのである。これは、茶番にすぎない。

 

 石油ショック後の価値観をそのまま引きずり、以降、思考停止してしまっている。その後の進化・改善が、まったくみられないまま、依然として「結論先にありき」で、既得権益への忖度感満載の国民不在の日本のエネルギー政策は、末期的でまさにミゼラブルである。GXは、既存大手電力会社救済や大手企業利益誘導のための政策ではないはずである。

 

 東日本大震災の10倍のダメージが想定される「南海トラフ地震」が30年以内に70~80%の確率で起きるとされる中で、依然として「自国に向けた常設核弾頭」とも揶揄される原発が廃炉もせずにあまた温存されている危機意識の欠落は、あまりに愚鈍すぎる。原発施設への攻撃の危険性はウクライナ戦争での原発攻撃事例でも先刻ご承知であろう。そこにまったく危機感を感じず、「結論先にありき」で、防衛費増額を、一切、原発リスク問題に触れずに、いまそこにある潜在的なリスクを無視して、やっきになって予算増額の必要性を滔々と熱弁する為政者諸氏に、総合的に俯瞰して思考する能力の衰弱とバランス感覚と知的水準の劣化を疑わざるを得ない。

 

 世界の潮流が、再エネとEVがキーコンテンツとなって、デジタル化の波も同期して、すでに大きなパラダイムシフトが稼動しつつあることは自明で常識である。こうした中、その波に乗れず、周回遅れで、狼狽し、できない理由を挙げて、不作為を正当化し責任回避することにだけに汲々としている日本に、明るい未来はない。「日本の常識は、世界の非常識だ」と揶揄されて久しいが、その甚だしい彼我のギャップは、日本にとって大きな機会費用(opportunity cost)であり、カントリーリスクであり、日本国民にとって、百害あって一利なしである。そして、何よりも恥ずかしいことである。

 

再エネ電力を主導する太陽光発電設備
再エネ電力を主導する太陽光発電設備

 

 科学技術力や人材にも恵まれている日本には、原子力にも化石燃料にも依存しない再エネを基盤とする社会の実現が、充分可能であるはずである。ただ、残された唯一の障害は、政治の機能不全と不作為の問題にある。わが国の為政者も、かつては優秀だと言われた官僚諸氏も、こうした不作為の罪が、やがては、日本の未来の深刻なリスクになることを想像できる能力と解像度を、もっていないのであろうか。それとも、自己保身と責任回避への異常な執着ほどには、自分の本来の公僕としてのミッションや国民の幸福に対する責任遂行には、関心がないのであろうか。

 

 こうした危機的状況下で、様々な噴飯ものの茶番を観るにつけ、はたして、わが国日本は、気候危機に真摯に取り組んでいるのだろうかと大いに疑問に思う。そして、「正義」の不在を嘆かわしく思う。実は、日本ほど、イナーシャ(Inertia;慣性)、特にinstitutional inertiaが強く、思い切ったパラダイムシフトができない国もないのではなかろうか。

 

 先進国日本には、単にノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)としてでなく、その経済優先の思考行動習慣の結果、いままで散々、地球環境を破壊し、生物多様性を毀損し、気候危機の元凶たる温室効果ガスを出してきた「加害者」としての自覚と責務が求められる。

 

 この美しい地球と言う稀有な惑星に住む79億人の人類とあらゆる生物種が、いま存続の危機に面している。いま必要なことは、犯人さがしでも責任回避でもなく、一刻も早く解決策を具体的な実行に移すことである。人類同士で不毛な戦争なんかしている暇はないのだ。

 

 いまこそ、日本は、忌まわしい悪しき利権忖度の古い思考習慣から脱皮し、毅然と、真の脱炭素社会構築のトップランナーとして、その存在感を世界に示すべきろう。まだゲームは終了していないのだから。いまからでも遅くはないのである。

 

 「この世で一番むずかしいのは、新しい考えを受け入れることではなく、古い考えを忘れることだ」と喝破した、かの英国の経済学者ジョン・メイナード・ケインズの箴言を、世界中でいま一番謙虚に理解すべきなのは、他ならぬ、わが国日本なのかもしれない。

 

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古屋 力(ふるや ちから)東京銀行入行、国際通貨研究所エコノミスト等を歴任、三菱東京UFJ銀行を経て、東洋学園大学人文学部教授。現在同大学特任教授。「炭素通貨論」等を展開。