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日中関係の危機の本質-「レーダー照射事件」から考える-(浅井基文ブログ)

2013-02-10 22:42:12

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*2月5日に小野寺防衛相が緊急の記者会見を行い、中国艦船が日本艦船及びヘリコプターに対して「ミサイル射撃の前提」になる火器管制用のレーダーを照射した(それぞれ1月30日及び同月19日)ことを公表し、「このような火器管制レーダー、いわゆる射撃用のレーダーを発出するということは大変異常なことであり、1歩間違えば大変危険な状況に陥る」として中国を非難しました。

この記者会見が行われる直前の段階で、私はたまたまパソコンで作業中でしたが、画面片隅でつけておいたNHKのニュース番組が、間もなく小野寺防衛相の緊急記者会見が行われると予告し、始まり次第その模様を中継すると物々しく案内するのを見たのでした。1月19日と30日に起こったとされる事件について、2月5日になって鳴り物入りの「緊急」記者会見というのも普通ではありませんでしたが、その後の報道で明らかになったように、この記者会見での「事件」の発表が、中国側に対する照会、申し入れ、交渉を経た上でのもの(つまり中国側との交渉で埒が明かなかったので公表に踏み切ったもの)ではなかった(新聞報道によれば、日本の外務省自体も蚊帳の外だったとか)というのも、常軌を逸した行動でした。

 

しかも、この緊急記者会見による本件公表と中国非難は、安倍首相が「万全の対応と中国に対する抗議を指示した」ことを受けてのものだったことも明らかにされました。要するに最初から「ケンカ腰」だったのです。 しかし、日本のマスコミのフィーバーぶりは恐らく安倍首相が意図したとおりのものとなりました。文字どおり政府発信情報の「垂れ流し」で、一夜にして「軍事挑発する危険きわまりない中国」というイメージが作り上げられました。そして8日には、明らかに安倍首相訪米を念頭においた、安倍首相肝いりの「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安倍首相退陣により活動を停止していた)が再開され、集団的自衛権行使に関する研討を再開することになったのです。

 

私は今回の事態の流れを見ていて、2つのことを考えざるを得ませんでした。一つは、安倍首相の危険きわまりなさということです。もう一つは、なぜ日本の世論(マスコミを含む)はかくも中国に対して厳しいのかということです。この2点についての私の考えを記し、皆様にも考えていただけたらと願う次第です(2月10日記)。


1.安倍首相の危険きわまりなさ


 

<物事の軽重判断すらできないことを暴露した安倍首相>

今回の「レーダー照射」公表の顛末から浮かび上がってくる問題の一つは、目的のためには手段を選ばない安倍首相の危険極まりない本質です。安倍首相の目的とは、根本的、究極的には憲法「改正」であり、当面の政治日程のもとでは2月21日から予定されている訪米(オバマとの首脳会談)における日米軍事同盟のさらなる強化に関する日米合意の達成ということです。

 

今回の訪米では、TPP交渉への日本の参加問題、在沖米軍基地なかんずく普天間代替施設問題、国際結婚が破綻した夫婦間の子供の扱いを定めた「ハーグ条約」加盟問題などが懸案となっていますが、これらの問題では「色よい」返事をオバマに行う当てが立っていません。元々日米軍事同盟強化を重視している安倍首相としては、ますます日米軍事同盟強化において目立った成果がほしいところでしょう。

 

オバマ政権と民主党政権の間でも、3度にわたる日米安全保障協議委員会での合意による日米軍事同盟の再編強化の実績がありますから、安倍首相としては「集団的自衛権行使」への踏み込みによってオバマ政権との関係強化につなげたいであろうことは見やすいどころです。こういう筋書きを描いていたであろう安倍首相が、中国艦船によるレーダー照射「事件」を中国の「挑発性」、軍事的「脅威」性を喧伝するための格好の材料と判断し、飛びついたであろうこともまた見やすい道理です。

 

ちなみに、中国側論調においては、2月2日付の共同通信単独配信記事に注目が向けられています。環球時報HPの紹介によれば、この記事は、アメリカ側は「中国を刺激する可能性がある」ことを理由に、日本政府が集団的自衛権を解禁することに反対している、またアメリカの高官は「日本が集団的自衛権を解禁しようとするのはいいが、首脳会談を利用して宣伝するべきではない」と述べたことを紹介しているというのです。2月5日付の中国青年報も共同通信の報道した以上の二つのくだりに注目した柳洪杰署名記事を掲載していますし、同日付の文匯報も同趣旨の記事を載せています。

 

また共同記事は、安倍首相は首脳会談で、中国が「自制」するよう日米が共同で促すことを提案しているが、国務省は、そのような行動は「米中関係に影響を与える可能性がある」として消極的であるとも紹介しているとのことです。 アメリカ側姿勢に関するこの記事の以上の内容に信憑性があるとすれば、安倍首相としてはアメリカ側の同調を引き出すためにも、ますます中国の「危険性」「挑発性」「脅威性」を印象づける「材料」がほしいところだったわけで、「レーダー照射」に飛びついたのは当然だったと言えるわけです。   以上からは、物事の軽重に関する基礎的判断力さえ欠けている安倍首相の短絡的発想の危険きわまりない性格が浮かび上がっています。

 

<政権担当能力がないことを露呈した安倍首相>

今回の顛末から浮かび上がってくるもう一つの問題は、安倍首相が深刻さを増している日中関係を歯牙にもかけていないのではないかということであり、それは取りも直さず、彼の情勢認識の怪しさを際立たせ、その政権担当能力そのものに疑問符をつけざるを得ないということです。   現在の日中関係が軍事的に一触即発の危機的状況にあることは、私がコラムで紹介してきた中国側論調だけでなく、イギリスのフィナンシャル・タイムズ(2月4日付。タイトルは「1914年の暗影が太平洋を覆っている」)や、アメリカのワシントン・ポスト(2月5日付。タイトルは「アジアの島嶼紛争におけるアメリカの利益」)などの海外有力メディアが深い憂慮と警戒を示していることからも明らかです。

 

前者は、第一次世界大戦は誰もが起こるとは考えてもいなかったのに起こってしまったことを指摘して、日米中に自制を促すものでした。また後者も、一つの愚かな過ちが戦争を引き起こしてしまう可能性があることに警鐘を鳴らし、日米安保条約はアメリカが攻撃を受けたときに日本を防衛することを要求しているので、衝突が勃発しないようにする責任はアメリカにかかっていると指摘するものでした。 また2月6日のアメリカのパネッタ国防長官の発言も、日本(及び中国の)メディアは日本に肩入れし、中国に自制を求めるものとして報道しましたが、その力点は日中双方に対して平和的問題解決を求めること(裏返せば、アメリカが軍事的に巻き込まれることはあくまで回避したいこと)にあったことは、ペンタゴンが発表した報道文から明らかでした。

 

日本による尖閣「国有化」にすべての発端がある、今日の厳しい日中関係の現状に関する認識が安倍首相に備わっていたならば、中国側に対する事実関係の確認その他の接触なしにいきなり公表するという「ケンカ腰」のアプローチはおよそあり得ないものであることは分かるはずです。ましてや安倍首相は、公明党の山口代表に習近平総書記宛の親書を託して、日中関係改善に対する明確な意思表示をしたのですから、この意思表示が本心から出たものであるとすれば、一方的な公表ということはますますあり得ないものだったことだったはずです。

 

たとえて言うならば、ケンカを売った張本人が、自分の責任を隠すためにことさらに相手側の行動にケチをつけている、というのが今回の事態の本質です。しかも、見物している野次馬連中(特にアメリカ)に、このケンカは相手に売られたものだと強弁して、同情を求めているのです。ここには、事態収拾への誠意の一かけらも感じられないのです。   逆にいえば、安倍首相には日中関係の深刻を極める状況についての認識の根本的な部分において欠落するものがあるのではないでしょうか。もっと有り体にいえば、安倍首相は、日本が強く出ても日中軍事衝突が起こることはあり得ない(アメリカの後ろ盾があるので、中国が強く出てくるはずはない)と高をくくっている、もっと厳しく考えれば、むしろアメリカを引き込んで中国に一泡吹かせてやりたい、とすら考えているのではないでしょうか。そして、そのような日本(安倍首相)の極楽トンビの「勇ましさ」こそが中国のみならず、欧米諸国がもっとも恐れ、警戒していることなのです。それは現代戦争の取り返しのつかない破壊性、破滅性に対する致命的な認識の欠落に起因するものであり、その認識の欠落に優る政治的欠格事由はないのです。


2.日本世論の厳しい対中姿勢


 

私が改めて考え込まざるを得なかったのは、日本のマス・メディアのあまりにもひどいいい加減さと、しかしそのような政府情報の垂れ流しがまかり通ってしまう国内の対中世論状況の怪しさということでした。

 

<マス・メディアの恐るべき迎合姿勢>

日本のマス・メディアのいい加減さは何も今日に始まったことではありません。しかし、今回の「レーダー照射」に関して言えば、こういう「事件」は日本の尖閣「国有化」というわずか半年前の出来事がなかったならば起こるはずもなかったという明々白々な事実が完璧にフタをされて(マス・メディアがわずか半年前からの経緯を忘れてしまったとはさすがに思えない)、ひたすら中国の「挑発性」を示す事件として大々的に報道するマス・メディアの体たらくには、私としては開いた口がふさがらなかったというのが偽りのないところです。しかも、各紙・TV局が競って中国批判を展開するという典型的な「群れをなす」日本的集団行動を見せつけられると、あきれるよりも、どす黒い空恐ろしさをひしひしと感じさせられたのです。

 

戦前であれば軍国主義の統制下ということで止むを得ざるものであったという言い訳はあったかもしれません。しかし、「価値観を共有する先進民主主義国の一員」であるはずの日本における、批判的世論の担い手であるはずのメディアのこの画一性は一体何なんでしょうか。権力の物理的な統制もないのに権力のいいなりに動く日本のマスコミの体質は、やはり報道の自由を権力から闘い取る歴史をもたない日本のジャーナリズムの本質的脆弱性に由来するものだと再認識させられます。

 

<あやしい対中世論状況が生みだされた原因>

しかし、マス・メディアのこのような画一的な対中批判報道がまかり通るというのは、やはり国民世論の対中認識の厳しい現実がある(その点に関する世論調査結果には事欠かない)からこそでしょう。なぜ、日本の国民世論はかくも中国に対して厳しいのでしょうか。

 

私自身、尖閣問題で日中関係が厳しくなってから、様々な集会でお話しする機会があります。お話ししてからの質疑応答や懇親会で、すさまじいまでの中国批判の発言に出くわしています。私の考え方を基本的に理解している主催者が私を集会に呼ぶのですから、その集会に参加する人たちも、日本の保守政治あるいは現在の政治状況に対しては批判的な見解を持っていると自己認識している人が多いのです。そして、憲法「改正」には反対という立場を取る人が多いと思います。そういう人たちが、こと中国となるととたんに猛烈な対中批判を展開するのです。その激しさはもはや「異論を差し挟む余地なし」で、私はしばしば、中国に関してお話しした自分の言葉は一体何だったのかと鼻白む思いになることがしばしばです。こういうあやしい国内対日世論の存在がマス・メディアの今回のような画一的対中批判報道の強力な受け皿になっていることは間違いありません。

 

中国が「どうしようもない問題児」であれば、こういう世論状況はその事実認識に基づくものだという合理的な解釈が成り立ちます。しかし、今回の尖閣問題の経緯を踏まえるとき、「レーダー照射事件」に関する報道に接するや否や、非は中国にあるという認識一色に染まってしまう日本の世論状況はとても合理的かつ冷静な判断に立ったものとは認識できません。一事が万事というわけではありませんが、日本国内の対中世論状況にはどうしても危うさを感じてならないのです。やはり、この非合理性の原因を国民的に明らかにして、正すべきは正さないと、主権者である国民が日中関係を主体的に把握し、認識し、方向性を誤らないようにするための基礎的条件がいつまでたっても成立しないと思います。

 

私が考える非合理性の原因としては以下のようなものがあります。詳しく述べる余裕は今のところないので、とりあえず顔出しということでご理解ください。

 

〇対等平等な国家関係を知らない日中両国民  根っこにある問題としては、日中関係が未だかつて対等平等な二国間関係の歴史を経験したことがないということがあります。このことは、対等平等な国家関係こそが現代国際関係の基本であることを考えれば、実に異常なことであることが分かります。対等平等な日中関係を知らないために、双方の国民が相手側に対して違和感、警戒感、更には敵対感情を持ちやすいのです。1972年以後の日中関係は形式的法的には対等平等なはずなのですが、現実には日米安保体制(日米軍事同盟)・アメリカが立ちはだかってきましたから、日中関係はどうしてもアメリカ抜きには語れない関係でしかなかったのです。尖閣問題もまたこの枠組みの下にあります。

 

〇歴史認識の問題  次にやはり根っこに横たわる問題として歴史問題、正確に言うと歴史認識の問題の存在があります。具体的に言えば、日本の対中侵略の歴史をどのように認識し、将来につなげるかという問題です。私たち日本人の歴史に対する受けとめ方(認識以前の問題)はとても特異なものがあります。つまり私たちには「過去を水に流す」ことを善しとする受けとめ方が非常に強いという問題です。しかし中国人は「歴史の民」であり、「歴史を鑑と為す」受け止めなのです。しかし、この受けとめ方は中国人だけのものではなく、「歴史に学ばないものはその歴史を繰り返す」という認識は世界的に確立しています。この点はどうしても私たちがしっかり認識しなければならないことですが、私たちの「過去を水に流す」受けとめ方は根本的に改めなければならないということです。ちなみに、尖閣問題も歴史認識のあり方という性格を持っています。

 

〇国際観の問題  上記2つの問題ともつながっているのですが、私たちの国際観は、私流にいうと「天動説」なのです。つまり、世界は私たち(日本)を中心に回っているという見方しかできないのです。戦前における中心軸は天皇、戦後はアメリカに中心軸が移りましたが、日本はいつも世界の中心にあるのです。あるいは、国際関係を上下関係としてしか位置付けられない見方と言ってもいいでしょう。世界の中心(頂点)にある限り、日本(今ではアメリカ)が物事を誤るとか罪を犯すとかいうことはあり得ないわけで、何か日本(アメリカ)にとって意に沿わないことが起これば、それは必ず相手側が悪いということになるのです。  しかし1648年以来の近現代国際関係は「地動説」の認識に基づいて成り立っています。つまり上下関係ではなく対等平等関係なのです。日本(アメリカ)も誤りを犯すことがあるという当たり前の認識は、実はこういう国際観を我がものにしていないとなかなか自分のものにはなりません。日中関係においてはことのほかこのような「天動説」国際観が私たちの対中認識を規定していると思います。

 

中国も「中華世界」の認識ではないか、という反問がよく提起されます。その要素があることは否定しませんが、中国人の場合、特に2つの要素が彼らをして「地動説」国際観を我がものにさせています。 一つは、19世紀に中華世界の頂点の地位から近代国際関係の底辺にたたき落とされた(西欧列強によって半植民地化された)という体験です。この歴史から、国際関係のあり方に関する見方、国際観を鍛え直す民族的体験をしているのです。

 

ちなみに、私たち日本人も、1945年に中国と同様の体験を味わったのですが、既に述べたように、日本は中心軸を天皇からアメリカに移し替え、そのアメリカにピッタリ寄り添うことで「天動説」国際観を維持してしまったのです。そのアメリカがこれまた「天動説」国際観ですから、日本は「地動説」国際観を身につけられないまま今日に至っているというわけです。

 

もう一つは、近年の中国でよく言われる「換位思考」という要素です。これは丸山眞男が言う「他者感覚」そのものです。つまり、相手の立場に立ち、かつ、できる限り相手になりきって物事を眺め、認識するという考え方です。丸山の言う「他者感覚」は、私たち日本人にもっとも欠けている要素なのですが、中国人は「換位思考」という言葉において明確に「他者感覚」を我がものにしており、換位思考は国際関係を考える際にも自覚的に働いています(すべての中国人において、ということではありませんが)。

 

〇今日的諸要素  以上は根っこの問題とでも言うべき諸要素ですが、1945年以後の日本人の対中観に影響を及ぼしてきた要因も無視できません。

 

日本では戦前から、共産主義・社会主義は「アカ」という言葉で表されてきましたが、その残滓は戦後においてもなお生き続けています。さすがに近年ではかつてほどではありませんが、中国というと「社会主義だから」の一言で片づける人は結構多いのです。「社会主義」という言葉がマイナス的価値において捉えられていることは明らかです。アメリカ(及び安倍首相)が中国に対して「価値観を共有する国際共同体」とことさらに言うとき、中国はそういう「価値観」を共有していない警戒するべき対象として捉えているのです。中国を差別的に扱うこれらの発言の底流には「アカ」意識が相変わらず働いています。

 

今の若い皆さんには理解不能でしょうが、日本敗戦後の20年程度は、社会主義・中国に対して多くの日本人が親近感を抱いていました。そういう日本人の多くは、「革新」と呼ばれる国民層とおおむねダブっていたと思います。また、当時のマス・メディアの多くもおおむね中国に対しては好意的な見方をしていました。70年代以後、いくつかの中国国内の変化がこうした日本人の好意的な対中観を変えさせる要素として働きました。

 

最初に大きかったのは中ソ論争の影響です。中ソ論争は、日本における原水爆禁止運動に非常に重大なマイナスの影響を及ぼしました(社共対立による運動の分裂)。「革新」に属すると自己認識している人々のなかに中国に対するマイナス・イメージを持ち込んだのです。

 

次に大きかったのは日中共産党の関係断絶です。原水爆禁止運動においては、日本共産党の認識はおおむね中国共産党と一致していましたが、1966年を契機に関係が悪化し、断絶に至ったことは、日本の「革新」に属する、さらに多くの人々の対中認識に重大な影響を及ぼしました。

 

日本のマス・メディアの対中認識を決定的に悪化させた最大の要因は文化大革命です。日本のメディアのなかには文化大革命の思想的な意味を好意的に受けとめようとするものもあったのですが、中国自らが1978年に文化大革命を全否定した後、マス・メディアの世界では、中国を批判的に捉える姿勢が一気に強まりました。私は1980年-83年と中国に在勤しましたが、当時北京にいた特派員諸氏はおしなべて中国に対して「斜に構えた」報道に徹していたことを覚えています。このように斜に構え、とにかく批判的に見る態度は中国研究の専門家の間にも広がりました。

 

それでも当時はまだ、中国を好意的、友好的に見つめる眼差しが決して少なくなかったことは、1980年代を通じて中国側と友好都市関係を結ぶ地方自治体の数が増え続けたことからも窺うことができます。こういう人々は必ずしも伝統的な「革新」に属していたわけではありませんでした。ところが、1989年の天安門事件そして改革開放政策の中国の著しい変貌とりわけ大国としての急台頭は、これらの人々の対中感情に決定的な悪影響を及ぼしました。

 

こうして、国交正常化40周年を迎えた2012年には、日本人の対中感情は決定的に冷却化していたのです。中ソ論争、日中共産党の関係断絶、文化大革命、天安門事件、中国の大国化、そのいずれをとっても中国自身に問題の原因(少なくともその一部)があるわけです。したがって、日本人の対中認識の悪化の原因は中国にあるとする主張には一定の根拠があります。

 

しかし、いったん自らにおいて出来上がった対中認識の全否定のイメージを固定化し、中国の変化の可能性を一切受け付けないという見方は、畢竟するに天動説の形を変えた現れ方に等しいのではないでしょうか。しかも、こういう今日的諸要素がひそかに(あるいは私たちの自覚なしに)上記3つの根っこの問題と結びついている(私には強くそう思える)のですから、すべての責任を中国に押しつけるのではなく、私たち自身の対中認識のあり方を見つめ直す作業が不可欠だと思うのです。

 

しかも、現在の中国の進めている政策体系及びその基礎に座る情勢認識、自己規定には私たちが謙虚に学びとるべき内容が多々含まれていると私は実感しています。また私は、アメリカべったりの日本の政治のありようには絶望的なまでに問題の深刻さを痛感しており、自らの視点、座標軸を確立している中国の国家としてのありようからも、私たちが学ぶべきは少なくないと思います。

http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2013/index.html