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終戦前日、この国の軍隊は 国民を見捨てた。旧満州・葛根廟事件証言集が告発。「戦争のできる国」の復活で、国民はまた裏切られる(東京)

2014-07-21 01:52:14

完成させた証言集を手にする大島満吉さん=東京都西東京市で(安藤恭子撮影)
完成させた証言集を手にする大島満吉さん=東京都西東京市で(安藤恭子撮影)
完成させた証言集を手にする大島満吉さん=東京都西東京市で(安藤恭子撮影)


太平洋戦争の終戦直前、旧満州(中国東北部)で起きた旧ソ連軍の日本人虐殺事件「葛根廟(かっこんびょう)事件」の生存者らが証言集をまとめた。「私たちは国に見捨てられた棄民だった。せめて満州に散った人々の『紙の墓標』となれば」。

当時九歳で助かった大島満吉(まんきち)さん(78)=東京都練馬区=は思いを語り、事件の舞台だった中国と日本の最近の関係悪化を憂う。 (安藤恭子)


 「葛根廟事件の証言-草原の惨劇・平和への祈り」(新風書房)を製作したのは生存者や遺族でつくる「興安街命日会」。戦後七十年を前に、代表の大島さんを中心に二年がかりでまとめた。生存者や遺族五十五人の証言や、調査で確認できた七百三十四人の犠牲者名簿を収録している。




 事件が起きたのは終戦の前日。ソ連の対日参戦で満州西部の興安の民間人らがラマ教寺院「葛根廟」に向かって逃げた。戦車は避難民をなぎ倒し、機銃弾を浴びせた。




 当時国民学校四年だった大島さんは母や弟妹と細長い自然壕(ごう)に飛び降りた。中ではカーキ色の軍服を着たソ連兵が日本人の集団に機関銃を連射。三十人ほどが倒れた。「次は自分たちだ」。恐怖に血の気が引いた。




 壕には何百もの遺体が残された。生き残った人々は死を選ぼうとした。幼い大島さんは「死にたくない」と思ったが、言葉にできなかった。「ごめんね。すぐ行くからね」。母は大島さんの目の前で三歳の妹ののどを日本刀で突き、幼い命が絶えた。




 さらに一家で死のうと、在郷軍人が刀で自決を手助けする順番を待っているときに、はぐれた父らと再会した。父が母を説得し、金品を奪おうとする現地民から逃げ、翌年帰国した。




 強いはずの関東軍は民間人より先に南方へ逃走していた。大島さんは「逃げる手段も食べ物もなくて絶望した。人間は弱いものだ」と集団自決を振り返る。「遺骨も持ち帰れず、死者のために何もできない生き残りの私たちには、時効も免罪符もない」




 証言集には、現地民に救われた残留孤児らの体験も含まれている。かくまってくれた養父母への感謝や日中友好への願いをつづっている。




 事件から六十九年。日本では嫌中感情が広がりつつある。大島さんは「生存者は皆どこかで中国人に助けられている。大陸の広い心を持った中国を嫌いにはなれない」と話し「武器をかざせば敵ができ、抑止力にはならない。憲法の戦争放棄を実践してきた戦後をさらに延ばし、外交や交流に力を注いでほしい」と願う。




 <葛根廟事件> 1945年8月14日昼、旧満州の葛根廟(現在の内モンゴル自治区)に向けて南下する避難民約1300人が旧ソ連軍の戦車隊に襲われた。多くは非武装の女性や子どもで、9日のソ連侵攻後、関東軍に見捨てられた民間人が犠牲となった例とされる。関係者が口を閉ざすなどして正確な被害実態が分かっていない。助かったのは百数十人とみられ、うち30人以上は中国残留孤児となった。

 

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014071902000138.html